1600年

横手城

あの

食べたことはないけれど

 

やきそばで有名な

秋田県横手市にある

よくみると

星が煌めくこのお城。

 

 

戦国の時代に

本拠を構えていたのは

 

鎌倉の時代から

この秋田県南あたりを治め

小野寺家14代目にして

最後の当主 小野寺義道。

その仙北小野寺氏

最盛期を築いたという

偉大な父、輝道のあとを

引き継いだはいいけれども

 

周りは敵だらけ、、、、

 

最上家や戸沢家、秋田家

また由利十二頭と呼ばれ

何かあれば一揆を起こすような

不穏な集団もこのあたりにはいたらしい。

 

戦乱が続くなかで

 

小野寺義道は

部下の統率がうまく取れなかったらしく

 

いとこでもあり

小野寺家客将であった

鮭延城 鮭延秀綱が

最上軍に攻撃された時には

助けに行くことはできず

結果、愛想をつかされ

秀綱はのちに最上義光の腹心となり

 

そして

豪族の集団由利十二頭を

押さえるべく

猛将と呼ばれた

大井光安。

 

小野寺家側近であり

父の代から小野寺家に貢献してきた

八柏道為。

 

敵の謀略により

小野寺義道は騙され

ふたりとも

理不尽な死を迎えることとなる、、、。

小野寺義道、、、、

彼は武勇は優れていたといわれます。

 

しかしどうにも

その政治能力というものにおいて

配慮が欠けていたらしく

 

最上義光たちの罠にことごとくはまり

家臣たちの謀反においては

(謀反ではないが)

騙されて殺してしまう、、、

 

度重なるいくさのなか

多くの味方を失っていき

少しづつその所領を削り取られ

 

ついには豊臣秀吉による

奥州仕置が始まる、、、

 

仙北一揆が発生したことで

小野寺義道はその一揆には

関わっていなかったそうだが

その罪?を問われ

所領の三分の一を

没収されてしまう。

 

その没収されたというのが

湯沢、雄勝郡、、

 

小野寺家にとって

あの鎌倉時代にさかのぼり

何百年ものあいだ続く

小野寺氏発祥の地であり

 

先祖代々の地を

奪われた、、。

しかも、、、

その地が宿敵

最上義光のものと

なってしまったのは

なんとも、、、

言葉では言い難かったであろう、、、

かつて

伊達家の傀儡であった状況を脱却し

独立を求めて

出羽国の戦国大名として

成長し勢力を広げた

最上義光。

 

小野寺義道は所領も失い

有能な家臣も失っていく状況、、

それでも

先祖代々の地を守るべく

戦いを続けていく、、、

 

だが

義光にとっては

もはや小野寺家は

眼中になく

いつでも壊滅できるような

鼠のような扱いだったかも

しれません。

 

豊臣秀吉が死に、、

徳川家康と石田三成が

関ヶ原において

いくさを始めるころ、、、

 

小野寺義道は

その東軍についた

最上義光とともに

会津上杉討伐に出陣。

 

西軍方であった

上杉景勝。

 

東北の諸将たち、、

北は秋田実季5万2千石

角館を有す戸沢政盛4万石

西には岩手盛岡 南部俊直10万石

南には岩出山城

58万石の伊達政宗。

(この人は内々にまあいろいろあったみたいですが)

そして、、

小野寺義道が最も憎むべき相手であり

山形24万石を領している

最上義光。

 

そのなかで

わずか横手城3万5000石の

小野寺義道

 

この東北勢がほぼ全て東軍として

徳川家に味方し従軍している状況において

 

もはや、、、

狂気の沙汰ともいえる行動を起こす。

 

その東北勢が

上杉討伐に向かう途中、、、、

小野寺義道は

東軍の将である家康と会い

労いの言葉を戴きながらも

そのあと

自らの領地である横手に舞い戻ったあと

、、、

 

我が先祖代々の地である雄勝の地を

味方?同じ東軍である

最上義光から奪い取るべく

 

突如、かつての所領 湯沢城へ

攻め込んでいったという、、

 

もはや義道は政治や軍略とか、、、

そのあとのこととか

多分考えておらず

 

石田三成や上杉景勝ら西軍に

味方したかたちとなる、、

 

またこのもう一つの関ヶ原の合戦と呼ばれる

慶長出羽合戦、、、

 

結果的には

小野寺軍は

越後上杉軍を率いる

直江兼続とともに

 

憎き最上義光軍を

北から南から

挟撃するような状態。

 

しかも、、その横手城を拠点としていた

義道にとって

まわりの大名たちが

全てが東軍についているなか

 

その東北の大名たちを

すべて敵に回すこととなり

、、、多分

おそらくあったであろう

家臣たちの制止も聞かない

捨て身の行動に出た義道、、、

 

たった1日で終わってしまったのは

関ヶ原の戦い、、、、

 

その報告を受けた

上杉軍はすぐさま撤退し、、、、

 

そのあと、、その東北の地で

孤立無援となってしまった

小野寺義道、、、

 

全方向から反撃してきた

東軍 東北勢と

戦いを繰り広げたというが、、、

最後は降伏。

賊軍となった小野寺義道。

他人には騙されやすく

猪突猛進であったという彼は

小野寺氏

最後の大名として名を残し

 

永きに渡るその小野寺の歴史は

この時点で潰えることとなります。

 

しかし、、もし西軍が勝利していたら

この小野寺義道は

どうなっていたんでしょうか、、、?

 

そのあと彼は

彼ははるか西の国

島根県のほうへ流罪となり

その人生を全うし、、、

 

のちにあの忠臣蔵、、、

赤穂浪士のひとりが

この小野寺氏の血脈を

受け継いでいたという話も残ります、、、。

関ヶ原のあと、、横手の地は

常陸において権勢を振るった

 

佐竹義宣がこの地に移り

幕末まで久保田藩として

続いていく、、、、。

 

いまも

横手城に残るのは

かつて栄華を誇った

小野寺氏を讃える石碑、、

また、、

時を経て

幕末と呼ばれる時代には

この久保田藩、、

 

あの戊辰戦争において

幕府軍に味方すべく

東北勢は

奥羽越列藩同盟という

ものものしい連合軍を築いたはいいが

 

久保田藩は

どうも真っ先にこの同盟から抜けて

幕府軍を裏切り

官軍についたという。

その結果、、、

この横手城では

その東北列藩の軍勢から

さんざん攻めたてられたらしい、、、、

この秋田県の南のあたり

小野寺氏で始まり

関係性の薄い

佐竹氏で終わる

武士の時代、、、、、

 

関ヶ原の戦いと戊辰戦争。

ともに

徳川家を相手に

孤立奮闘していく

この秋田県の

サムライたちにとって

 

気分というか気概というか

その地の地域性?風土?

不思議な関連は果たしてあるのか

どうかも分かりませんが、、、

そして

最後にもう一つ

横手城の近くに

寂しげに、、

ぽつんと佇む

お墓が残っています。

 

そのお墓の主は

かつて

徳川家康の側近として

名を馳せた

かなり有名な武将のお墓、、、。

また次回、、、、

 

秋田県にも

いろいろある、、、。

 

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