1584年

長久手古戦場

織田家を

乗っとるどころか

天下を我がものにしようとする

羽柴秀吉に対して

 

織田信雄と徳川家康は

手を組んで

織田家を裏切った

羽柴秀吉との決戦を決断する。

 

秀吉はこのころ

美濃を支配していた

池田恒興を調略し懐柔、、。

 

池田恒興はもう出家していたらしく

「勝入」と自らを

名乗っていたというが

 

彼はその生まれた頃から

もともと織田家との縁が

深かったにも関わらず

本来味方につくべき?織田信雄を

裏切って秀吉に味方する。

 

1584年(天正12年)

3月13日

池田勝入は美濃から木曽川を渡り

尾張、犬山城を奇襲し

すぐさまこのお城を占領する、、、

 

同日、清洲城に到着し

IMG_1264

織田信雄と

作戦会議をしていた

徳川家康、、

 

池田勝入裏切りと

犬山城陥落の報を聞いた途端

小牧城へ向かい

15日には

この城を占拠。

 

まだ、このころ秀吉は大阪のほうにいたらしく

勝入の婿であった

森長可、、

 

彼は犬山城からより近く

家康の陣へ進むべく

 

16日には羽黒まで進出。

舅、池田勝入の軍を待って

ともに徳川軍を

攻撃するつもりだったが、、

 

その16日の時点で徳川軍は

長可の動きを察知しており

その夜、、、

ひっそりと羽黒へ向かう

徳川四天王のひとり

酒井忠次と

家康の娘婿、奥平信昌。

また、長篠の戦いの奇襲戦

鳶ノ巣山攻略戦に参戦し

戦死したという松平伊忠の息子

松平家忠。

彼ら5000人の兵たちは

 

17日、暁とともに進軍。

奇襲をかけ

あの鬼武蔵を敗走させたという。

 

しかしまだ、、

その羽柴包囲網に穴を開けようと

いまだなお、、大阪において

外交調略に手を打っていた

 

秀吉は、、

果たしてその敗報を焦るなか

どんな気持ちで聞いたのであろうか、、、、

 

そのあいだに徳川軍は

小牧城において野戦陣地を

築き上げていく、、。

負けじと池田軍も次々と砦や土塁を

築いていく。

 

秀吉が30000人もの兵とともに

ようやく、その大阪の地を離れて

主戦場である尾張へ向かい

犬山城に到着したのは

27日、、、

 

公称?12万5000人の羽柴軍と

多くても30000人前後の徳川軍との

決戦が始まる、、、

とおもいきや

 

犬山城から小牧城の間に

両軍そこらじゅう

砦や土塁を築いていて

はたしてお互い、、

どこから手を出せばいいのか、、

 

双方攻めあぐねている

状況で挑発や小競り合いのみで

戦況は膠着、、、。

 

秀吉は犬山城から小牧城の位置する

南へ向かい

わずか4キロという距離まで近づき

楽田城を本陣とし

ちょうど、、、

その戦線が停止している状況のなか

 

おそらく、家康の指示により

四天王 榊原康政の名において

秀吉や世間?に向けて

挑発の弾劾文をばら撒いて、、

その内容はそのまんま

 

「秀吉のような卑賎のみにおいて

織田家を裏切って、天下を奪うとは何事だ。

我が主君、徳川家康は筋を通し

これまで長きにわたり同盟していた

織田家との関係を憂いて信雄に味方する。

その正義のため秀吉の暴悪に対し味方し

先祖の名を汚すな。我々に味方して

彼の逆賊秀吉をともに討ち取ろう。」

 

羽柴軍はその弾劾文に対し

何を思ったのか

その張本人羽柴秀吉はどう感じたのか

 

だが、、、その膠着している戦線において

羽柴軍にある策が浮かんできた、、

 

今現在小牧山城と拠点としている

徳川家康の本拠地である

 

三河国岡崎城を

家康がいない隙に

回り込んで奪い取ってしまおう。

 

この策は池田勝入や

羽黒で敗れた鬼武蔵の挽回の策として

秀吉に献策し認められたというが、、

どうも、、

秀吉自身がこの策を練って

実行に移したという話もありますけれども

 

 

それはともかく

羽柴軍において

君主不在の三河への

中入り攻撃の計画が練られていく。

 

4月6日の夜中にひっそりと

池田勝入を先鋒として

その軍は三河へ、、

 

第一軍 池田勝入 6000人

彼とともに彼の二人の息子

長男元助と次男輝政も

ともに従軍し

 

第二軍は  森長可 3000人

鬼武蔵と呼ばれた男は

さきの羽黒での戦いにおいて

屈辱的な敗走をしたことで

その名誉を挽回すべく

もはや死装束のつもりか

白い陣羽織と

名馬百段に乗り、愛槍人間無骨を携え

三河へ進発、、

 

第三軍 堀秀政 3000人

名人久太郎と呼ばれた男は

かつて、、織田信長に仕え

本能寺の変のとき、秀吉とともに

備中攻めに参加していたが

そのまま、山崎の戦いにおいて

一緒に明智光秀を討ち

秀吉の家臣となって

この頃には

羽柴の姓も与えられていたという。

 

第四軍はこの三河攻めにおいて

総大将を務める

羽柴信吉という17歳の若者、、

のちの豊臣秀次と呼ばれる

本隊の兵8000人。

 

総勢2万人の奇襲部隊?にしては多すぎて

機動性や隠密性に欠けたこの軍勢は

先鋒隊の池田軍から順次、、三河へ向け

兵を進めていく。

 

だがその動きは

家康軍に情報が筒抜けだったらしく

そのなかで小牧山城に陣を張っていた

家康は榊原康政と兵を分け

羽柴軍の狙うべく動きを見極め

 

野外決戦に備えて

小牧山城をひっそりと出発する、、、

 

4月9日未明に

羽柴軍の先頭であった

池田勝入軍、、

その通りがかりの小城

岩崎城。

 

徳川軍として参陣していたという

丹羽氏次の弟、16歳の氏重が

この城を僅か300人程度で

守っていた、、、。

 

この城はかまわずに

三河へ向かおうとした

池田勝入、、

だが突如、この小さな城から鉄砲が

池田軍に向かって撃ち放たれる、、、

 

この銃撃に頭にきたのは勝入、、

小癪な、この城を落としてやろうと

 

三河奇襲部隊の先頭の兵たちが

この岩崎城攻略に時間を費やす

その時間、、、

羽柴軍の

進軍は止まっており

 

そんな状況で

羽柴軍最後尾本隊の

羽柴信吉軍8000人

 

その先頭が岩崎城攻略しているさなか

夜明け前に白山林というところで

 

なんの警戒心も抱かず

朝ごはんを食べていたという

信吉たち。

 

突如

榊原康政率いる

徳川軍が襲ってきたという。

 

なんの準備もしていなかった

この8000人の兵たち、、、

混乱し逃げ散ってしまい

信吉も煌びやかな軍装で

凄く目立っていたというが、、

 

その格好の標的となった総大将は

乗る馬すらなく

あの有名な可児才蔵にも見捨てられて

走って逃げたといわれます、、、

 

撹乱し逃げていく総大将、、、、

その前方において

うしろで何か騒いでいると

胸騒ぎがしたのは第三軍の

名人と呼ばれた堀秀政、、

 

第四軍の総大将信吉らは

犬山の本陣、楽田城ではなく

前方の長久手方面である

秀政軍の方へ逃げてきて

 

その信吉の敗報を聞いた名人

堀秀政は

檜ヶ根に布陣し

後方から逃走してくる

信吉の兵たちを受け容れながら

これから追撃してくるであろう徳川軍を待ち伏せ

 

追走してくる徳川兵を

堀秀政第三軍は

鉄砲や弓を持って反撃。

 

そのまま堀秀政軍は突撃し

今度は榊原康政たちを撃退。

一気に反撃に転じた

第三軍堀隊は徳川軍を

猛追していく、、、、

 

堀秀政はこの機を逃さず

逃散していく徳川軍に

攻めかかろうとした瞬間、、

、、、

 

彼の目の前に映ったもの

 

それは、、、

富士ヶ根という地において

(いまは色金山?と呼ばれる場所でしょうか?)

 

朝陽に照り

燦然と輝く金のうちわ、、、

 

これこそ本陣

徳川家康

出撃の馬標。

 

名人久太郎は

この金扇を見た瞬間、、、

これ以上の深追いは

やめた方がいいと

判断し撤退したらしい。

 

だがその

「中入り」

攻めにおいて後方の情報は入らぬまま

三河へ進軍し続けるのは

第一軍 池田勝入と

第二軍 森長可。

 

彼らにようやくそのうしろの戦況の報が入り

 

孤軍となってしまったなか

三河への進軍をやめ、引き返し戻った

その前方には

いまは長久手と呼ばれる地において

徳川家康軍15000人の三河兵、織田兵が

立ちはだかったという、、、、、

、、、

しかし、、、どうも最近、、、

投稿の題名と

記事の内容がズレズレで申し訳ないのですが

構成も考えず、記事書いていると

長くなってしまい、、、

 

書きたいことが書けないまま

多分、この記事で何を書きたかったのか

話はズレたままで

また次回に続きますけれど、、

、、また次回に続きます。

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