1600年

真田庵

山々に囲まれた

信州にある小さな、、、

小県郡において

土豪であったという真田氏、、、

戦国乱世の時代に家を守るべく

権謀術数の限りを尽くし

徳川家康も

恐れおののいたといわれる男の名は

真田昌幸。

、、、

すぐに草刈正雄が思い浮かぶ、、、

 

あの戦国最強と呼ばれる

武田信玄の

身の回りの世話をする側近中の側近に、、

若き昌幸がいたといいます。

 

将来の武田軍団の

幹部候補となるべく

奥近習六人衆のひとりとして

信玄のそばで

その神の如き戦略、戦術を

常に身をもって学べる環境だったという。

 

 

この頃、真田家には兄が二人いたことで

僅か7歳で武田家の人質に出され、、、

 

そして武藤家の養子となり

昌幸は

武藤喜兵衛と名乗る。

 

だがしかし、、もはや人質というよりも

信玄の愛弟子のような扱いで

その才を見出され

「我が両眼の如し」

と賞賛されるほど信頼を置かれ

 

また、のちに

その湧き上がる智謀の才を評され

ときの太閤秀吉に

「表裏比興の者」

といわしめたらしい、、、、

彼の終焉の地が

ここ高野山の麓

和歌山県 九度山町にあります。

六文銭がちらほらとある、、

関ヶ原の戦いの直前、、、

上杉征伐の兵を起こし

徳川家康は東へ向かう、、、

だが

下野国 小山の陣から

西軍挙兵の報を聞いた東軍は

再び西へ軍を向ける、、

 

その時、家康本隊の軍は

東海道をとおり、

家康の息子である徳川秀忠軍は

中山道を西へ進む、、、

 

その中山道の通り道にあった

信州上田城において

西軍についた

真田昌幸は籠城戦を開始、、、

秀忠軍をなだめすかしつつ

時間稼ぎをする昌幸、、、

 

なんとたった3000人の兵で

秀忠軍38000人もの兵を

挑発しながら頑強に城を守り

足止めし、、、結局

秀忠軍は関ヶ原の合戦に

間に合わなかったといいます。

 

 

だが、、その戦略においては

運を天に任せたような状況であり

結局西軍は敗戦してしまうことで

昌幸は

家康から死罪を下されたという、、、

 

しかし関ヶ原の合戦の前に

真田親子は東西どちらが勝っても

お家を残そうと

意図的に運命を分断、、、、

東軍についた長男、信幸と

その舅である本多忠勝。

 

彼らの必死の嘆願助命により

命だけは救われたが

高野山へ流され、、、

 

今は善名称院というお寺となっているこの地に

庵を結び、、

 

10年以上も過ごしたといいます。

真田昌幸が

初めて徳川軍と対峙したのが

まだ武藤喜兵衛と

名乗る頃、、

武田信玄の西上作戦の途中

三方ヶ原において

徳川家康を散々にぶちのめし

 

長篠の合戦において

兄二人を失った三男の喜兵衛は

再び真田の家を継ぐこととなり

昌幸と名乗り

 

だが武田家が滅亡してからは

織田信長に巨従、、、したはいいが

そのあとすぐに

本能寺の変が勃発、、、

 

ここから

旧武田領を巡り

徳川家康

北条氏康

上杉景勝

が割拠し勢力を拡大するため侵攻、、、

甲斐、信濃、上野の争奪戦が起きる、、

 

その大国に挟まれる

渦中において

小さな国人衆の一つであった

真田家。

 

昌幸は

巧みにその外交戦略を駆使し

北条氏、上杉氏、徳川氏と

渡り歩き、、、

 

しかも、、あの上田城を造るときも

どうも

徳川家康にお金をださせたらしい、、

 

生き残りを図る昌幸は

上田と沼田の領地を維持できた

のも、、つかの間、、

ちょうど西では

長久手の合戦が行われる頃でしょうか。

 

敵対していた徳川家と北条家が和睦、、、

昌幸が知らないうちに

家康がその沼田領を勝手に

北条にあげちゃったという、、

 

怒った昌幸は今度は上杉家に従属し

沼田領は渡さんと猛反発。

 

それに対し激怒したという家康は

北条軍と手を組み

1585年9月

真田家攻略を開始。

上田城に籠城する真田軍2000人。

対する徳川軍は7000人だったというが

 

稀代の策士の本領が発揮され

徳川軍を撃退したといいます、、

 

しかも

徳川軍は戦死者1000人以上も出し

真田軍は僅か数十名だったという快勝、、、

 

その武勇は一気に世に知られたという、、、

そして、、、

父親である昌幸の戦いぶりを

常にそばで見ていたのは

、、、

次男である源次郎、、、

(しかし、、、長男が源三郎で

次男が源次郎とは果たしてどんなものか、、、

あっ

次男はいいのか、、)

 

 

知謀の限りを尽くして

真田家を守った昌幸、、

裏切りの連続だらけで

 

きっとほかの武将がやったら

陰鬱なイメージのあると思うが

 

、、、こう、、

なんていうんでしょうか

昌幸の人生というのは

 

果たして、、、どうしてそんな暗い影を

あんまり感じさせず

むしろ爽快な気持ちにさせてくれるのは

何故なんでしょう、、、、、

 

彼は、、

 

一生のうちでいくさにおいて

ただの一度も

家康に負けることなかったという。

 

しかしこのあたり、、、

こんな雷を封じ込めたという井戸とか

真田の抜け穴もある、、、、

(大阪城まで繋がっているらしい、、、)

これまた

おもしろいと思ったのは

この提灯がこの九度山の民家の玄関で

いたるところに飾られており

 

なんとも趣を感じさせます、、

 

ちょっと寂れた商店街の

小さな雑貨屋?お雛様とか

いろいろ売っていたこの提灯は

やけに人当たりのいい店主と

その奥さんがやってる店で

せっかく来たので

記念に購入、、、

 

ちょうど大河ドラマの頃に

提灯を作ろうと

アイデアを出したのはその店の店主で

 

どえらい数の提灯を作って

見事に売れたと奥さんは

笑っていた覚えがあります。

、、話を戻しますが

 

真田昌幸、、、

関ヶ原では敗れたが

 

必ずもう一度大阪城において

戦禍が巻き起こると確信し

 

、、、それまでは雌伏し

その時が来るのを待つ、、、

 

だが家康は、、、

彼を野に出せば

また乱世の世がやってくると恐れ

彼を死ぬまで

九度山から出さなかったといいます。

 

 

だけども

家康が一つだけ忘れていたことがあった、、

 

昌幸には一緒に九度山で蟄居したという

 

その源次郎と呼ばれた

次男坊がひとり、、、

 

 

 

彼はかつて上杉家に人質となり

豊臣の時代になってからは

秀吉の小姓として仕えた

聡明な若者だったらしい、、、

 

また、彼は大谷吉継の娘を妻とし

これまで父の名に隠れ

世間を騒がし

武勇を表に見せるような

男ではなかったが

 

彼は、、

 

父昌幸がこの地で亡くなった

何年後かに、、、、

ついに

この九度山を飛び出して

家康を討つべく

大阪城へ向かうこととなります。

 

 

、、そして関ヶ原の合戦から

 

14年もの歳月が経ち

日本の権力をほぼ手中に収め

 

かつての

戦国の世を終わらすべく

豊臣家討伐の準備を進めて

大阪城へ向かう家康、、、

 

幾たびも目の前に現れ

何度も辛酸を舐められた

あの真田昌幸の存在も

 

いまはむかし、、、

 

だったと思う、、、

 

きっと薄っすらとした記憶の片隅でしか

残っていなかったかもしれません、、、、

 

 

しかし

六文銭の幟を背に棚引かせ

真田が大阪城に入城した報を聞いたとき、、

 

家康は、、、

どんだけ

ど肝を抜かれたんでしょうか、、、

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