1576年

お静慰霊碑

羽柴秀吉が

主君である織田信長の仇討ちを敢行した

山崎の合戦。

明智光秀を討ち破った

すぐあと、、、

今後の織田家の後継ぎや

これまでの織田家、明智家の遺領ををどうするかと

話し合った清洲会議において

IMG_1264

柴田勝家はもともとの領地であった

北陸180万石に加えて

そこから南へ連なり

琵琶湖畔まで続く

近江長浜城をよこせと要求したという。

 

秀吉にとっては

信長から頂戴し

生まれて初めて一国の主として

自ら築城したお城、、

いろんな思いが彼には

よぎったかもしれませんが、、、

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あっさり秀吉はこの長浜城を

柴田勝家に譲ったという。

 

そのあと、この長浜城に入ったのは

柴田勝豊。

 

勝豊は勝家のお姉さんの息子で

勝家には後継ぎがなかったそうで

柴田家の後継ぎの一人であったというが、、、

 

勝豊はどうも勝家に嫌われていたらしい、、、

勝家はお気に入りである

もう一人の甥

柴田勝政や

佐久間盛政を気に入っており

勝豊を疎んじていたともいわれます。

 

時代を少しさかのぼり、、

柴田勝家は

1575年(天正3年)

織田信長により

北陸方面軍司令官を命じられる、、

この時代、、華やかな戦国大名たちの

影に隠れて、、、

 

農民たちや地侍による

庶民の戦いも同時に頻発していたといいます。

 

1471年頃から

蓮如と呼ばれる僧が

だれにでも分かりやすい

(あの有名なお経、、南無阿弥陀仏と唱えれば極楽に行けるという、、、)

浄土真宗をこのあたりで布教したのが

始まりらしい、、、

この信仰で結ばれた民衆たちは

一向一揆とのちに呼ばれ

各地で一向宗の門徒たちが

立ち上がり

戦国大名たちと戦ったという、、

 

しかもあの有名な

加賀一向一揆、、

1488年(長享2年)

門徒たちは

加賀の守護大名であった

冨樫政親を破り

ここから、、、

織田信長が滅ぼすまで、、、

加賀は

「百姓の持ちたる国」

と呼ばれ

一致団結した

門徒たちによる自治支配が

100年近く続いたといいます。

丸岡城は

1576年(天正4年)

その北陸方面軍司令官

柴田勝家が

その一向一揆の備えとして

甥の柴田勝豊に築かせたお城、、

 

その柴田勝豊が

お城の石垣を積み上げている最中

何度も何度も石垣が崩れてしまう、、

そのため、誰が勝豊に進言したのかは知らないが

人柱を選ぶこととなったといわれます、、、。

 

それがお静という片目の女性、、、

彼女は子を二人抱え、苦しい生活をしていたらしく

自分の息子を侍に取り立ててもらうことを約束し

彼女は天守閣の中柱の下に

埋められることとなる、、

だが、、、

その約束は果たされなかったといいます、、、、

 

 

天守閣は無事完成されるも、、、

間も無く

勝豊は

長浜城へ移ることとなったみたいで、、、

 

結局、彼女の息子は侍になることができなかったという。

彼女は、、

それを恨み

毎年、卯月の頃、、、

涙雨を空から流し

お堀には水が溢れたという、、、。

そして長浜城の城主となった柴田勝豊は、、、

石高も増え、なったはいいけれども、、、

 

彼は、、、

叔父であった

柴田勝家を裏切ることとなる。

 

秀吉が陰謀を巡らせ、、、

まだ彼の小姓であった

若き大谷吉継が、勝豊を調略し

勝豊は羽柴秀吉に寝返ってしまったという、、、

 

それからまもなく、、、

あの有名な

賤ヶ岳の戦いが始まることとなりますが

勝豊は、、もうその頃には

病に伏し

この世にはいなかったという、、、、。

気になるのは、、、、

、、、、、

生贄となった

お静さんのなきがら、、、

(たぶん、、、)

この天守閣の下でいまも、、、

 

今、彼女はどんな気持ちで

眠っているんだろうか、、、、、、

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