関ヶ原の前哨戦として
岐阜城攻略のため
東軍 池田輝政、山内一豊らの進軍を阻止しようと
西軍 岐阜城城主
織田秀信(織田信長のまご 織田信忠の嫡男)
の指示のもと
百々綱家らが
防戦した戦場になります。
今堤防沿いにいますが
車がビュンビュン走ってます。
1600年8月22日
両軍激突しますが
東軍18000人に対し
西軍は防御線を広く張りすぎ
3000人
(もともと9000人防衛軍として
配置していたそうですが
なんせ木曽川のどこから攻めてくるか
わからないから大変だったみたいです)
壁が薄くなったことで
東軍は集中突破
あっさり西軍は後退し
岐阜城へ撤退、、、
3000人で奮戦し
退却した西軍の百々綱家、、、、
築城の名人だったそうで
関ヶ原戦後に
土佐藩の城主となった
山内一豊が
徳川家康に懇願し
西軍についたことを許され
山内家の家臣となり
高知城の築城を任されたそうです。
それからは
昨日の敵は今日の友(家臣ですが)として
不思議ですね
こういうエピソードは歴史の醍醐味です、、
山内家に仕え
百々家の子孫は
幕末の土佐参政
吉田東洋まで粒々と受け継がれていくことになるようです。
そして木曽川を渡りきった東軍は
刻々と、、
岐阜城攻略に向かう、、、、。
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