「関ヶ原の合戦」
と呼ばれる天下分け目の合戦に至る前
きっと数多くの調略や戦いがあり、、
歴史に名を残す戦でも
ひとつひとつ、、、
ひとりひとり、、、、
ほんの少しの微妙な
運命のなかで、、、
いろんなドラマが渦巻いています、、、。
通り道の石碑とか少し触れてみるだけでも
歴史の影に隠れたような人たち、、、
きっと多分もっとたくさんいるんでしょうね、、、
「熊」
と異名を持つほど武勇に秀でており
かの豊臣秀吉にも厚い信頼を受けていたと言われる
一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)
彼は秀吉の黄母衣衆として仕え
小牧長久手の戦いでの
竹ヶ鼻城水攻めののちに
(これあんまり有名ではないが、、水攻めといったら高松城とか忍城とかが有名ですよね、、、)
直末は竹ヶ鼻城城主となり
そのあとは豊臣秀次の宿老となったりと
ぐんぐん出世街道を突き進みます。
しかし、天正18年(1590年)の小田原征伐にて戦死。
一柳家の跡を継いだ
弟の一柳直盛。
彼もまた秀吉に仕え尾張黒田城城主として
また従五位下監物を叙せられます。
(?監物、、今で言う事務のかただと思います、、、)
、、しかし秀吉亡きあと、直盛は
あの関ヶ原合戦前夜に、、
石田三成率いる西軍ではなく
東軍につき
池田輝政らとともに木曽川を渡り
織田信長の孫、清洲会議では三法師と呼ばれた
西軍の岐阜城城主の織田秀信軍を相手に
尾張、岐阜の境界線である
河田渡河戦線を繰り広げ
木曽川を渡った東軍は
米野と呼ばれる地において
西軍と激突。
その一柳直盛の筆頭家老であった
大塚権太夫は
この米野の戦いと
呼ばれたいくさで
一番槍として真っ先に突撃したそうです。
織田秀信の部下、武市善兵衛を打ち破り
また善兵衛の弟の忠左衛門も
彼に破られます。
二人の首を持った大塚権太夫の前に
織田秀信に仕えていた
岐阜四天王と呼ばれる
一人の男が立ちはだかります。
彼をこの地で倒した男の名は
飯沼勘平長資、、、
しかしこの塚?墓?
、、、、
探すのにかなり苦労しました、、
こんなん見つからんだろと思うくらい
どこにあるのかさっぱりわからない、、
暇をみて3回くらい
この岐阜県の笠松町無動寺という住所を頼りに
ウロウロと、、、
あんまりウロウロすると
変な人かと思われそうで、なんか、、
小心者なので仕方ないが、、
写真撮っているすぐそばで
近所のおじさん?が畑をやっていて
ジロジロ見られたり軽く会釈したりと、、
まあ、それはともかく
次回へと続きます。
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