ちょうど
長篠城から
ぐるっと迂回して
南西の豊川を挟むその場所
今は(いまも?)畑しかないような
広大な地の片隅に
この石碑はあります。
この石碑のうしろの
木々を隔てた先に
長篠城がある、、
その長篠城の攻防戦において
徳川軍である
長篠城主 奥平信昌の家臣
鳥居強右衛門が
磔となった跡だという、、
武田信玄が死んだのち、、
徳川家康に寝返った
奥三河の山家三方衆のひとり
奥平貞能。
三河の東端にある長篠城へ
武田勝頼は1万5000人の兵を
繰り出して
1575年(天正3年)
5月8日に長篠城を囲む。
川と山に囲まれた
この断崖絶壁の城を守るのは
武田軍から徳川軍に寝返り
その明るい未来を
約束されたといわれる
奥平貞能の長男
奥平信昌(貞昌)。
設楽原のパーキングエリアで見つけたのは
おっかない表情の奥平信昌と
左にいる笑顔の女性は彼の妻であり
家康の娘であった亀姫。
総攻撃をしかけてくる
1万5000人の武田軍に対し
決死の覚悟でその猛攻を防ぐ
20歳足らずの若者と
共に城を守る城兵たち
わずか500人、、、
武田軍も1万5000人で
たった500人が守るこの城を落とすのは
容易なものだと
舐めていたのかもしれません。
その天嶮の要害において
僅かな兵で凌ぐ奥平信昌。
だが開戦から5日経ったころ、、、
武田軍の放った火の矢が
城の食料庫に命中し
それが燃やされてしまい
食べるものが無くなってしまう。
それでも
なかなか落ちない長篠城。
武田軍は幾十もの柵で城を囲み
川には網を張って
城外から誰も出られぬようにし
もはや城の中では
何日分かの食料しかなく
蟻一匹すら通さない
包囲網を張られた挙句
岡崎城にいるはずの主君、徳川家康に
応援を頼んだはいいけれど
その可否の情報も
全く信昌の耳には届いてこない。
信昌には、、
昨年、武田勝頼により
援軍を送ってもらうことが
できないまま落とされたという
高天神城の悪夢も
蘇ったかもしれない、、
連日続く武田勝頼軍の城攻め。
孤立無援
絶体絶命のなかで
徳川家康へもう一度
援軍を要請しようと
一人の男が志願する。
開戦から6日後の
8月14日
鳥居強右衛門は
長篠城から、、
1万5000人の武田軍に囲まれている
その敵の目をかいくぐり
夜陰に乗じ城を脱出。
15日の朝には、、
強右衛門は
脱出は成功した今から徳川様のもとに向かいますと
城に向け狼煙を上げたという。
この煙を長篠城から
眺めている兵たちと
奥平信昌のいちるの望み、、、
そこから、、
強右衛門は
長篠から岡崎へ
65㎞という距離を一気に
ひた走り岡崎城へ到着。
そのとき、、、
多分 強右衛門が
その目で見たかもしれない光景は
筆舌に尽くしがたい感動を
覚えたのかもしれません。
主君
徳川家康の率いる軍8000人に加え
家康が援軍を依頼したという
尾張の同盟者である
織田信長もその場におり
総勢3万8000人が
武田軍を殲滅するため
奥平信昌が守っている
長篠城救援に
これから向かうという。
そして強右衛門、、、
どうやら走りとおして
岡崎に到着して
信長や家康からちょっとやすめと
いたわりの言葉を
かけられたにも関わらず
彼は
我が殿、奥平信昌に
この援軍の情報を一刻も
早く伝えなければいけないと
岡崎からすぐさま翻して
長篠城へ向かって走り出す。
鳥居強右衛門は
その復路65㎞をとにかく走りきり
16日の早朝には
長篠城の近くに舞い戻り
その長篠城の城兵に向け
援軍は来る安心しろと狼煙をあげる。
その煙を見た瀕死の城兵たちから
なぜか歓声が上がっているのを
怪しむのは武田勝頼、、、
そのあと、、
ついに入城を試みた強右衛門は
武田軍の兵に捕まってしまったという。
捕らえられた
強右衛門の情報を聞き出す
武田勝頼。
もうまもなく
織田、徳川軍がこの長篠城に
やって来るらしい。
このとき、、実は
奥平の主君徳川家康の援軍は
ともかく、、、あの織田信長軍まで
やってくるだなんて、、
、、
勝頼は思ってもみなかったらしい。
武田軍に捕らえられた
鳥居強右衛門。
彼はここで武田勝頼に
ある提案を持ちかけられる。
強右衛門の命を保証する代わりに、、
今後は武田家の家臣として
優遇してやるから
織田徳川軍はもうこないから諦めて
城を明け渡すよう
嘘の情報を
長篠城にいる兵たちにへ伝えよと、、、
その案を了承したという
強右衛門。
長篠城から見えるこの地で
、、このとき
守るべき妻や子もあったであろう
彼の、、、
いかばかりのものであったか
計り知れないその覚悟。
強右衛門は城に向かって叫ぶ。
もうまもなく徳川織田の
援軍はこの地にやってくる。
なんとか持ちこたえろと、、
その強右衛門の声を聞いた
奥平信昌たち、、
捕らえられた強右衛門の姿を
なすすべなく
川を隔ててはるか彼方で
見ていたのかもしれない。
だけれどもその強右衛門の生命をかけた叫びは
果たして、、、
嘘なのか本当なのか
当の長篠城籠城軍たちは
真否も分からない状況だったと
思いますが、、、
それでも、、、強右衛門の
その声にどれだけの城兵たちが
救われたのであろうか、、
結局
鳥居強右衛門は処刑されることとなりますが
そのあと、、
彼の血脈はいまなお続いているという。
子孫の方々は
何していらっしゃるかは知らんけれども
しかし、、これはすごい、、
、、自分の先祖の話なんか
ほとんど両親とか祖母とかにも
聞いたことないけれど
多分、、間違いなく
気の小さな、、、
ただの名もなき
農民だろう、、、、
そんなことより、、
織田、徳川軍3万8000人は
長篠城へ向かい
その設楽原において陣を張る。
武田軍をどう攻めようかと
軍議を開いているなかで
徳川四天王の一人である
酒井忠次。
彼は長篠城のそばにある
武田軍の陣地
「鳶ノ巣山」
と呼ばれた場所を奇襲しようと
持ちかける。
でもその酒井忠次の案に対し
信長は突如怒り出して
忠次は、すごすごと座を退く、、、
だけれどもそのあと、、
酒井忠次を呼び出した
信長、、、
実はさっきの、、
鳶ノ巣山奇襲作戦は
名案であると思っている。
だがあの軍議の場で
賛成してしまうと
敵にも漏れちゃうんじゃないかと
心配になったのだ
さあいますぐ鳶ノ巣山を攻めてくれと
酒井忠次に
その鳶ノ巣山奇襲作戦の命令を
出したといいます。
なんだかよくわからんが
その信長の本心を聞いた
酒井忠次は大いに勇み
金森長近や
奥平信昌の父
奥平貞能たちも引き連れて、、
長篠城を死に物狂いで守っている
信昌たちを救援すべく
鳶ノ巣山へと向かう。
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