1722年

苗木藩士 安田太左衛門殉死の跡

 

鎌倉時代から続く遠山氏。

遠山氏はどんどん親戚筋が

増殖していき、、、

(多すぎてもうよく分かりません)

そのなかにはあの名奉行と呼ばれる

遠山の金さんもいたらしい、、、

流々と血が受け継がれていくなか

苗木城は

1526年(大永6年)ごろ遠山正廉によって

築かれたといいます。

 

戦国の時代、、

武田信玄、織田信長が対立する頃

苗木遠山氏は何とかうまくやっていこうと

双方と縁を結んだという。

 

だがしかし、、

本能寺の変ののち

豊臣秀吉の部下である

森長可に城を追われ

徳川家康に身を寄せた

遠山友忠。

彼は無念の中で亡くなられたそうですが

友忠の息子である

遠山友政。

 

彼は徳川家康の家来である

菅沼定利という

武将のもとで食客として甘んじ、、

きっと多分

悶々としていたなか、、

 

18年後、、遠山友政に

チャンスが訪れます。

 

1600年(慶長5年)

関ヶ原の合戦において

このあたり、東美濃の諸将たちはみな

西軍についていたそうですが

 

かつての居城であった

苗木城を

攻略する事になる友政、、

東軍として苗木城を見事奪還。

しかも関ヶ原では家康率いる東軍が

勝利したことで戦後

苗木遠山家、遠山友政は

苗木城城主へと

返り咲くこととなります。

18年もの長い年月、、

かつての城を取り戻す事ができた

友政、、

おそらくほとんど景色の変わらなかったであろう

この光景を

再び目にした時

彼の喜びはいかほどだったんであろうか、、、

 

彼は苗木藩

初代藩主として

一万五百二十一石の大名となり

ここから

十二代に渡り

明治の時代まで続く、、、、

 

、、この城は

天然の巨岩を利用しながら

巧みに石垣を使い築き上げたという、、

しかし、この時代一万石程度で城持ちとなったのは

ここ苗木遠山氏だけだったらしい、、、

しかもかなり貧乏な藩であったらしく

あの今もよくある

白い壁のお城ではなく

板張りと土壁だけの城で

赤壁城と呼ばれていたといいます。

苗木城から見える

木曽川と城山大橋。

せっかくなので

あの橋の真ん中あたりまで行って

臨んだ苗木城は

趣があるというか、、

なんだか異様な感じがします、、

 

そしてこの橋から見る地上の光景、、、

歩道があるので

歩いてみると

とてもじゃないが、、

歩道があっても

恐怖で足がすくみます、、、

(しかし怖いものみたさか、またここ、、、行きたくなる、、、)

、、

少しお城を下ると

苗木遠山氏のお殿様たちのお墓があります。

その脇に

1722年(享保7年)

苗木城5代目藩主である

遠山友由の側近であったという

安田太左衛門。

遠山友由が病気により

29歳という若さで死去し

その後を追って

この岩の上で自らの命を絶ったという、、

主従の関係であったふたり

どれだけの仲だったのか知る由もないが、、

太左衛門の妻である

おぢゃうが

亡き夫を偲び、、

どこかに植えた桜があるといいます。

 

 

桜といえば、、

苗木城のそばには

さくら公園というスポットがあり

いつも大体

下調べもせず

目的地にいくことが多いですが

なんとも運のいい季節に来られて

いいもん見せてもらいました、、

、、、話は戻りますが

関ヶ原合戦の前、、

会津征伐における軍議

徳川家康が

諸将を呼び集めたという

小山評定。

東軍 徳川家康につくのか

西軍 石田三成につくのか

話し合いが行われた時

福島正則や山内一豊の発言を発端として、、、

ほぼ全ての人たちが

東軍につくと言い

家康に忠誠を誓うなかで、、、

、、、たった一人だけ

周りに流されず

皆の前で

「自分はかつて受けた豊臣秀吉の恩顧は裏切ることはできない」

と言い切って小山を去り

西軍に与したという武将がいたという、、、、

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