関ヶ原の合戦場から
ちょっと離れた
南西に位置する山のなか
行った人は感じる?
かもしれません。
妙に
なんだか荘厳な
雰囲気を漂わせる場所。
1600年(慶長5年)
徳川家康の要請に応えるべく
大谷吉継は
上杉景勝を討つため
居城である越前敦賀を出立し
会津征伐に向かう。
だが
7月2日の進軍途中、、、
佐和山城に立ち寄ったことで
吉継の運命が変わる、、。
五奉行を降ろされ
謹慎していた
石田三成と会い
そこで三成に
重大な機密を打ち明けられる、、、。
三成は吉継に
家康を討つための計画を明かし
協力してほしいと伝えます。
吉継はすでに壊れまくった三成と家康の関係を
少しでも取り持とうと考えていたらしいですが
もはや上杉軍、直江兼続と
徳川軍を挟み撃ちにするための
策を練って
その作戦は進んでいる状況、、
再三にわたり吉継は
家康を討つのは無理だからやめろと三成を説得します。
だが
高潔すぎるが故に他者とは交わらず
家康の専横に憤り自らの正義を突き通す三成。
彼の固い熱意に負け
遂に吉継は西軍に与することとなります。
それでも、九分八分
三成が負けるであろうと考える吉継、、
若かりし頃より友誼を交えた
佐吉と紀之介。
同じ時期に秀吉に仕え
年齢も近く
気も合っていた二人の仲というのは
計り知れない二人だけしか
分からない深い関係が
あったんでしょうね、きっと、、、
7月11日
吉継は西軍につくと
決めたからには
ここから
西軍必勝の手を打っていきます。
北陸、越前、加賀の諸大名を
調略にて味方につけ
家康の味方であった
あの前田利家の嫡男
前田利長をたぶらかし
金沢城に足止めし
関ヶ原への参戦が出来ないように
してしまったという。
、、、書いていて思い出しましたが
そういえば大谷吉継の娘婿が
(大河ドラマ見て初めて知りました、、、)
かの
日の本一のツワモノ
真田幸村
彼は関ヶ原合戦の時期
信州上田城において
父 昌幸とともに西軍に属し
たった2000人の兵で
中山道から関ヶ原に向かう徳川秀忠軍を挑発し
38000人を足止め。
秀忠軍は関ヶ原合戦に間に合わず
秀忠は
父、家康からこっぴどく叱られたらしい、、、
8月23日には岐阜城が東軍により陥落。
9月に入り、吉継は出兵。
息子吉勝や脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、戸田勝成とともに
総勢6000人近くで
関ヶ原の西南、山中村に陣を張る。
吉継が関ヶ原開戦前夜において
危惧するのは
松尾山において
どちらに味方をする気か
なに考えているのか分からない
18歳の若者、、
小早川秀秋に対し
裏切らぬように念を押す。
そして9月15日
運命の開戦に至ります。
深い霧が少しづつ晴れていく中で
朝8時過ぎ、、、
東軍88000人?75000人?
西軍85000人?100000人?
とかいろいろ調べてみても
人数はよく分かりませんが
いずれにせよ
東西総勢160000人前後の
大会戦が幕を開ける。
石田三成率いる西軍は
戦闘の経過を見ている将も多かったらしく
死力を尽くし戦っているのは
味方の三分の一の人数だったといわれます。
それでも
徳川家康率いる東軍に立ち向かい
むしろ東軍を押しているような状況だったそうで
、、、凄いな、、
石田三成は戦闘中にも
自ら西軍の動かない部隊を回り
出撃するよう催促します、、、
その西軍の死力の戦いを見て
焦り出すのは家康、、、
標高293mの松尾山山頂にいる
小早川秀秋隊15000人はいまだ動かず。
息子の秀忠は秀忠で38000人もの大軍が
まさか信州上田にある
小城に引っかかっているとは
夢にも思わない、、、
ついに
しびれを切らした家康は
動く気配のない小早川隊に
鉄砲?大砲を撃ちかけます。
小早川秀秋は
東軍西軍どちらにつくか決めた
この瞬間
この先の日本の未来を決め
歴史に名を残すこととなります、、
小早川秀秋。
西軍として参戦していましたが
もともと家康から西軍を裏切るように
約束していたらしく
この松尾山下の東軍の前線部隊から
その一斉射撃を受け
西軍に向け
雪崩のごとく山を降りた
小早川隊15000人
西軍の大谷刑部少輔吉継の軍に突進してきます。
朝から東軍の藤堂高虎
京極高知隊を相手に奮戦し
何度も
追い散らしたといわれる大谷隊は
疲弊のなかでも小早川隊を迎え撃ち
僅かな兵をもって幾度も追い返したという。
だが
開戦直前に東軍、藤堂高虎は家康の命を受け
大谷隊に属していた
脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保ら
小大名に対して密かに西軍を裏切るように
調略していたらしい、、、
激戦の最中
ついに彼らは旗を翻して
大谷隊へ攻撃を仕掛けます。
それに加え
小早川隊からの猛攻を受けた
大谷隊は
ついに壊滅する、、、。
ここから西軍の諸将たちは動揺。
状況は一変していき
一気に西軍の潰走が始まっていったという、、、、
大谷吉継、、
もはや絶望的な状況において
そばにいた家臣
湯浅五助に
何度も何度も戦況を訊いたそうです。
その吉継はその時
眼も殆ど見えず
身体は糜爛の状態のなかで
戸板の輿に乗って
死ぬ間際まで指揮をとったといいます。
裏切った脇坂らや
小早川軍に囲まれ猛攻を受け
かねてから
吉継は
五助に病に蝕まれた自分の首を
「敵に渡すな」
と言いつけていたらしく、、
その覚悟を決した瞬間
すぐさま自ら腹を切り
その首を五助に落とさせる、、、。
吉継の介錯をした
湯浅五助。
彼は吉継の首を
敵の影から離れた場所に移し
誰にも見つからぬよう地中に埋めたらしい。
だが、、
それを見ていたらしい
敵の武将がひとり。
東軍に属する藤堂高虎の甥である
藤堂高刑。
五助は、、、もう戦う気力も無く
きっと、、、
へとへとに疲れ果てていたんでしょう、、、
この若武者へ
ひとこと伝える。
「自分の首の代わりに我が主君
大谷刑部の首をここに埋めたことは
誰にも言わないで欲しい」
高刑は五助に
誰にも言わないと誓い
五助の首を取ったそうです。
戦後
五助の首を打ち取った高刑は
徳川家康から手柄を褒められます。
だけれども
吉継の家臣である
五助の首を打ち取ったということは
その主君である吉継の
首のありかも知っているんではないかと
高刑に問う、、、
高刑は正直に
「知っている」
と家康に答えたらしい。
でも彼は
どんな罰を受けようとも
五助と誓ったので
誰にも言えないと
最後まで
吉継の首のありかを
言わなかったという。
この大谷吉継の墓は
東軍である藤堂高虎が
建てたと言われます。
また左にある(ちょっと写真は隠れています、、、)
お墓は
大谷吉継に最後まで付き添った湯浅五助の墓。
五助の墓は関ヶ原の合戦から300年もののち、、、
大正5年に
子孫の方が建てられたそうです。
関ヶ原にいかれた方は
ぜひ
行ってみてください。
湯浅五助は
いまも、、、
主君
大谷刑部吉継のそばで控えています、、、、
動画もよかったらお時間あるときに
見てください。
よろしくお願いします。
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