1600年

大谷吉継 陣跡

関ヶ原の合戦において石田三成率いる

西軍の将として

徳川家康率いる東軍に立ち向かう

大谷吉継。

病魔に侵され、視力も殆ど無かったといわれ

崩れてしまった顔を頭巾で隠しながら

輿に乗り僅か600人の部下たちを叱咤鼓舞し

戦場の指揮をとったといわれます。

吉継はここ関ヶ原にある山中村の若宮八幡宮 山腹において布陣。

関ヶ原開戦から序盤

東軍の東堂高虎隊

京極高知隊を相手に大谷隊は奮戦したそうです。

陣を張ったこの山から

南に見えるは、松尾山。

表向きは西軍としてついていた小早川秀秋率いる1万5千の部隊が見え、、

吉継は秀秋がいつ東軍に裏切るかどうかと疑いの目を持って

戦が始まっても動かない小早川隊の動きをここで逐一観察していたようです、、

大谷吉継の生まれた場所や前半生は諸説あり

「東」と呼ばれる吉継の母親が何かしら豊臣秀吉と縁があり

吉継は秀吉の小姓として仕えます。

百姓から這い上がり、子宝にも恵まれず

代々仕えている家臣もない秀吉は

大谷吉継、加藤清正とか福島正則とか石田三成とか

親戚のつてやそこらへんの頭の良さそうな若者を

身分に関係なく自分の部下にしていったそうです。

 

本能寺の変のあと

秀吉が柴田勝家と対立した

賤ヶ岳の戦いの前夜にはもともと秀吉の居城だったのに

清洲会議で柴田勝家に譲ってしまった

長浜城の城主、柴田勝豊を吉継は調略。

勝豊は叔父であった勝家を裏切ってしまいます。

 

賤ヶ岳の戦いでも石田三成とともにあの有名な賤ヶ岳の七本槍を凌ぐ活躍を見せたそうで

天下をとった豊臣秀吉のもと

吉継は従五位下刑部少輔という身分を与えられ、越前敦賀の城主となります。

、、、しかし次第に病魔に侵されはじめていく吉継。

 

九州征伐や朝鮮出兵と呼ばれる文禄・慶長の役をはじめとする

いくさでは船の調達や兵士、兵糧等の輸送など目立たないけれども

後方支援を見事にこなしたそうです。

しかしこの時代、一番乗りだとか敵の首を取っただのと

最前線での武功も重要だったかもしれませんが

こう大谷吉継や石田三成(←この人は態度が尊大でいらぬ敵を増やしていったらしいが)

のように

裏方として地味な作業でも確実にこなせる部下は秀吉も重宝し、、

それでも武断派である戦場では命を懸けて常に前を突き進む

福島正則とか加藤清正からみれば

いくさ場にも出ず安全な場所からそろばん、帳簿とにらめっこして

戦の役にもたたんくせに秀吉様から大事にされておる!

と腹がたつやら妬ましいやら?と、、

(まあ、気持ち?だけはわからんでもないですけど、、、)

吉継の底知れぬ実力を認め

「吉継に百万の兵を与えて指揮をさせたかった」と言っていたという

太閤秀吉は、慶長3年(1598年)に死去。

 

その後、吉継は五大老である徳川家康に接近。

秀吉の遺言を無視して禁止されていた

他の大名との婚姻を次々と行う家康を見かねた

前田利家や五奉行が一戦も辞さずと家康と戦う姿勢を見せた時も

吉継は家康を警護するため、屋敷に兵を集めたそうで

、、、そんなに家康との仲も悪くなかったようですが、、

その中で、家康の独断専行を糾弾する石田三成。

 

もともと豊臣秀吉の子飼いとして七将と呼ばれる武断派と

行政を担当する文治派との対立は表面化していき

武断派は朝鮮出兵における査定においても

三成に恨みを抱いており

仲裁をしていたという前田利家も遂に亡くなり

武断派の怒りは爆発し三成を襲撃しようとします。

 

しかし、三成を救ったのは徳川家康、、

三成は襲撃計画を察知し、いろんな大名屋敷に潜伏しながら

最終的には、なんと家康のいる伏見屋敷に逃げ込んだらしい、、

屋敷を取り囲む七将は三成を引き渡せと家康に要求するも

家康は拒否。そのかわりに仲裁をして

三成を奉行職から外し佐和山城で謹慎、、、

七将たちはようやく納得します。

前田利家が死に

三成を追い出し

ここから家康はこれまで以上にやりたい放題、、

伏見城を乗っ取り、そこらじゅうの大名と婚姻政策を進めたり

大阪城にいる他の大名を国許に追っ払い大阪城に住み着いたり、、

秀吉が死んでから僅か2年も満たないうちに

もはや誰も家康の横暴を止めることができなくなっています。

 

そして家康は五大老の一人

会津の上杉景勝が城を造り始めるなど

軍事力を増強させていることに対して

何か企んでいるのではないかと疑い

上杉景勝に

潔白であるというなら誓紙を出し大阪へ来て

釈明しろと言いますが

会津藩家老、直江兼続は

かの有名な直江状を家康に送りつけ

なんとも無礼で挑戦的な文書を読み怒り狂った家康は

遂に会津討伐を決意します。

 

吉継はこの時点でもまだ、家康とは懇意であったらしく

家康から会津討伐の要請を受けた吉継は、領国である

敦賀より兵を率い病を押して討伐軍に参加します。

 

そのあいだに

佐和山城で謹慎していた

石田三成は

家康を討つため

上杉軍、直江兼続と計画し家康挙兵に向けての準備をし

西国の毛利、長宗我部や島津、宇喜多、小早川と

有力な大名を味方につけ、、、

 

会津へ向かう途中、多分何も知らない吉継は佐和山城に

呼ばれたか、立ち寄ったか分かりませんが

いずれにせよ吉継は

会津征伐を前に三成と佐和山城で会い、、

三成から重大な決意を打ち明けられます、、、。

次回へ続く、、。

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