1623年

小里城 

1534年(天文3年)

東濃、、、、

 

岐阜県瑞浪市にある

土岐氏の一族

小里(おり)光忠が

築城したといわれる山城。

 

どうせたいしたことないだろうと、、

つっかけ半ズボンで登ったら

 

途中から

どえらいことになり

しかも、、、

こんな看板がいたるところにあって

ほんと勘弁してほしい、、、

 

汗にまみれて、、、なんとか頂上まで、、、、

 

甲斐の武田信玄が

どんどん西へと侵攻する中

尾張の織田信長も勢力を拡大。

 

その狭間に立つ小里光忠は最初、親戚である

明知城城主、遠山景行とともに武田勢に従いますが

徐々に

織田信長とも通じていく、、、、。

 

武田信玄が本格的に西上攻略を始め

徳川家康の領地へ

攻め込もうとする武田二十四将の一人

秋山虎繁率いる武田軍。

 

岩村城を攻略したあとなんとしても三河侵攻を防ぐとともに

岩村城奪還のため

 

徳川、遠山、小里連合軍は奮戦しますが敗戦。

小里光忠は

嫡子の光次とともに討ち死にします。

 

この城は織田勢が武田勢との戦いの中で

長篠の合戦後まで

 

最前線を守る城として重要な役割を担います。

 

本能寺の変により、織田信長が没すると

光忠の孫、光久も織田信忠とともに

二条城で戦死。

 

光忠の次男 光明が跡を継ぎ、織田信孝につきますが

その頃にはもう破竹の勢いであった豊臣秀吉。

 

そして、、、

ついには鬼武蔵、、

森長可にこの城は攻められて

 

小里家は浜松にいる徳川家康のもとへ逃れたそうです。

 

しかし今度は

小牧長久手の戦いで徳川軍に味方をし

戦功をあげた光明。

しかしこの戦で光明の息子、光直は戦死します。

 

関ヶ原の戦いでも東軍について

光直の息子

光親は再び小里城を執念のごとく奪回。

 

再び、小里城の領主として

小里家は蘇ります。

幕府の旗本として厚遇されたようですけれども

だが、、、

小里光親の嫡男、光重は嫡子のないまま

22歳で他界し

そのまま幕府から

断家を命じられて

 

1623年(元和9年)

小里城は廃城となったそうです。

華やかな戦国の時代の裏側で、小里家の様に

戦にまみれ忠を尽くしても

 

最後は家が断絶とか

ほかにもきっとたくさんあるんでしょうね、、、、

 

、、山を登りきると、石垣が綺麗に残っています。

静かで、頂上の城には休憩するところがあって

、、、誰とも会わずに登山下山、、

深く踏み込まれることもなく

静かに佇む城の跡

多少は観光協会の方々が調査をするとは思いますが

きっとこの先も変わらず

 

戦国の時代から

時間が止まったままの場所のように感じます。

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