岐阜県羽島市に
ありますが、、、
でも
残っているのは石碑だけ、、、、
この城
小牧長久手の戦いで
なんと
豊臣秀吉の水攻めに遭ってるそうです。
そのあと
関ヶ原前哨戦として
東軍が攻めた城だそうです。
桶屋の息子に生まれ
秀吉子飼いの武将として
賤ヶ岳七本槍のひとりとしても
有名な
福島正則。
彼は石田三成が嫌いで嫌いで
しょうがなかったらしいです。
同じ豊臣家の家臣にも関わらず
秀吉が死去したのち
石田三成を暗殺しようと企てる
加藤清正、福島正則らの武断派。
しかしそこに割って入ってくる
徳川家康。
天下取りの為
色々な計略を考え、、、
長期的な見通しのなかで
仲裁に入り
家康は少しづつ少しづつ
自分の思惑通りになる様に
動いていきます、、、
このあと
石田三成は
豊臣家の五奉行の役職を退き
居城、佐和山城にて蟄居。
その家康の腹黒さを知ってか
会津では
上杉景勝が自国で軍事を
整えています。
家康は上杉景勝に手紙を送り
一体何をしているのか問います。
直江兼続が返事をしたあの有名な
直江状。
それを読んだ
家康の怒りは頂点に達し
家康は会津征伐に向かうこととなりますが
その途中、、、、
石田三成も挙兵したと報を受け
福島正則は
家康の掌に転がされていることが分からないままに
あくまでも豊臣のためと東軍に属します。
慶長5年8月22日
小山評定が終わり
会津へ向かう予定であった自軍を
反転し
岐阜城攻略へ向かう途中で
福島正則軍は
そして同時に
河田渡河戦
米野の戦いと
西軍を破って
別のルートで
岐阜城へ進軍している池田輝政らと
合流し
岐阜城を攻略していくこととなる、、、、。
しかし、福島正則、、、
関ヶ原合戦に勝利し
広島藩の藩主となりますが
時間が経つにつれ、、
なんとも言えないほどの
悔恨の念に苛まれるようです、、、
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