1600年

北塚





この場所はかつていくさで亡くなった人たちのお墓。

敵も、味方も関係なく

地元の人たちに

手厚く葬られた場所だそうです。

丸毛兼利という

もともと美濃斎藤家の支配下にあったが

織田信長に仕え、本能寺の変後は

豊臣秀吉のもとへ、、郷に入れば郷に従えではないですが

それなりにうまいことやっていたようです、、

でも

天下分け目の大決戦、関ヶ原の戦いの少し前に

兼利は福束城城主として

西軍についていました。しかし東軍、福島正則が再三東軍につけと誘います。

しかし兼利は断固としてこれを拒否。

豊臣秀吉に大きな恩を感じていたのか、それとも美濃岐阜城主の織田秀信が

西軍についていた事で多くの美濃勢は西軍に加担していたそうで

彼もまた

その一人として、、、

彼が何を考えていたのか、、そして先のことも誰にもわからないですね、、。

 

いずれにせよ丸毛兼利は東軍につく誘いを断り

その後、福束城に立てこもったそうです。

 

1600年(慶長五年)8月16日、、

関ヶ原の合戦のちょうどひと月前に東軍は福束城へ軍を進めます。

それを迎え撃つ丸毛兼利。救援にくる

大垣城城主、伊藤彦兵衛と

長松城城主、武光忠棟

また石田三成も兵を割いて福束城の守りを固めますが、、、

 

東軍の市橋長勝は一案を計じ、夜中に奇襲をかけます。

この奇襲が功を得て、福束城を落とし

兼利は城を捨て、多くの死者も捨てて大垣城へ逃げ込み、、

 

その戦いで亡くなった人たちがここに葬られたそうです。

広大な

田んぼのなかにポツンと盛り上がり

目立つようで目立たない場所に

長きに渡り 粉塵にまみれ、風雨にさらされ

片方のお地蔵さんは上半身がどこかに飛んでいってしまったようです。

誰が作ったか屋根の下で寂しげに立ち尽くしている姿はなんともいえません。

 

丸毛兼利は関ヶ原合戦後も生き延び、前田家に仕えて長寿をされたそうです。

 

そして東軍の将として武功を挙げた市橋長勝という武将。

この人、、、

こんな人いたんかというくらいすごいエピソードが残っていて

彼は若い頃、織田信長に仕えていたそうですが

ある日、若狭の守護大名の使者が信長のもとにやってきて

やけに礼儀をわきまえ、かしこまった使者の姿を見た彼は

信長と使者が会う前に

突然、使者の前に現れ、足を放り出し仰向けに寝ると

自分のキンタマを彼に見せつけて弄り始めたそうです。

そして使者に放った一言

「このキンタマほどの餅、あなたなら何個食べられますか?」

と聞いたそうで

 

これを聞いた信長は大爆笑。

なにこれ、、、







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