もうすこしこのまま
秋田県の話を続けます、、、、
将軍足利家一族の
名門であった
羽州探題
最上家は
戦国のころににはかつての栄華は失せ
米沢の伊達家に従属し
かなり弱い立場で
伊達家の傀儡と成り果てている状況だったという。
最上家の第10代当主であった
最上義守は僅か2歳で家督を継いだらしいが、、
伊達家のお家騒動のどさくさに紛れ
戦国大名として独立を図るとともに
京都まで行き将軍にも拝謁し
羽州探題として改めて認められ
その権威を再び戻していく、、、
そんななかで
伊達家との同盟を固めるべく
義守の愛娘であった
義姫、、、
彼女は
伊達輝宗に輿入れをし
あの
梵天丸を産むこととなります。
そして義守の長男であり
義姫の実兄である
最上義光、、、。
、、まだ子供の頃、、、
観ていた大河ドラマの
最上義光といえば
原田芳雄、、、
あの陰鬱かつ色気のある
イメージしか湧きませんが
天童八楯(てんどうやつだて)と呼ばれた
もともと
最上家の分家から起こった
国衆達のあつまりは、、、
この頃には本家を上回るほど
かなりの勢力を持っていたらしく
父、義守から
家督を相続した義光は
出羽の覇権を握るべく
この国衆達を
屈服させようと企んだらしい。
山形において
最上家11代当主となった
義光の周りには
数え切れないほどの大名達がいます、、。
伊達家や大宝寺家、、
上杉家、安東家
会津には芦名家、、
また秋田の地
仙北には小野寺や戸沢家、、、
東北の広大な地を
ひしめきあい、争奪戦を
繰り広げているなか
義光は
家臣や領民の安寧をもたらそうと
出羽の地の支配を
広げようと野望を抱く。
だが、、
どこの家にもあるお家騒動が始まります。
家督を譲った父、義守と
長男、義光はうまが合わず
父親から見れば
義光の野望はなんとも危なっかしく
「最上家滅亡」
という恐怖がはたして
脳裏によぎったのかもしれない、、
それとも、、義光には弟がいたらしく
父は義光でなく
弟に最上家の後継ぎを企んだとか
その弟は実は架空の弟だったとか
よくわからないはなしもあります、、
家督を譲る譲らないで揉めに揉め
一度は譲ったけれども
この頃足利幕府は織田信長により滅ぼされ
もう足利家から認められた
羽州探題という権威も失せたなか、、、
1574年(天正2年)には
ついに父、義守は兵を挙げ
息子と
骨肉の争いが始まる、、
親子だけですめば
まだいいのだけれども、、
あの伊達輝宗も巻き込んで
義守側につき
そのうえ最上八楯の国人領主の連中
天童頼貞や白鳥長久らも
義光を取り囲んでいく、、。
四面楚歌の状況で
義光は殆ど直臣のみの
僅かな味方を頼るなかでも
八ヶ月という長期間に
渡り戦いきったという。
そして父を完全に屈服させ
最上家当主という地位を
確固たるものとしてから
羽州制覇を目論む義光は
山形盆地内の一族、最上八楯の連中を
謀略や調略、、
ときに流血を厭わず
次々と屈服させていく、、。
山形盆地を支配し
次には庄内平野を狙い
大宝寺義氏のその家臣
東禅寺兄弟を調略し
義光は
義氏を討ち取ってしまう、、
とにかく、、、
義光のその戦法は
権謀術が多かったらしく
謀略を利用して敵を内部から
かく乱、、、崩壊させ殺してしまうという
得意技を持ち
何とも暗いイメージが付きまとう、、、
だが一方では
彼は度量も広く
優しい武将だったといわれます。
その得意の調略においても
義光に裏切ってくれた?味方にも優しく
いくさで敗走する敵兵を無駄に殺すことはせず
義光は戦い敗れた武将の身内にも優しく
(それが政治的な作戦だったとしても)
庶民にとっては年貢も安くインフラ整備もしたり
涙もろいし身内には甘く
鮭が大好きでこれはどうでもいいが
家臣からも軽口を叩かれるような
人のいいお殿様だったともいわれます。
しかも、、、これはまた
いつかそのうち
紹介したいけれども
豊臣秀次の側室、、
人質として
最上家から差し出された
義光の愛娘
お駒、、、
類い稀なる美しさを放つ
15歳の少女は
義光がきっと
目に入れても痛くないほど
可愛がった愛娘、、
秀次と夫婦になったはいいが
はたして
秀次と顔すら
合わせていないのではないかと
噂のあるこの少女は
夫となる秀次に嫁ぐがため
山形から京へ到着、、、
だがなぜか
京の三条河原で
斬首されてしまう破目になり、、
、、、、
何とも虚しく、、、儚い
この少女の人生を憂いた
父親の気持ちとは
如何なものか、、、、
そして、ほんとうの
最上義光という人物、、、
一体どんな人だったんでしょう、、。
ちょっと、、、
最上義光ってどんな人なんだろと
気になりながらも
気になることだけ
だらだらと書いてしまったけれども、、、
それより、、、
今回紹介する
夫婦マツと呼ばれたこの
寄り添った二本の松の木、、、、
山形県の北部
秋田県南のあたりを
治めていたのは小野寺義道。
秋田県の雄勝郡にある稲庭城。
その仙北地方を
領有していたという
小野寺家のお城は
前回の話の続きに
なりますけれども
陰謀術数を駆使しながら
領土を拡げた最上義光と
戦いを繰り返し
天下人となった豊臣秀吉の
奥羽仕置により
この稲庭の地も
表面上は
義光のものとなったというが
小野寺家にとっては
この城こそ
仙北小野寺氏発祥の
聖地、、、
むざむざと明け渡す訳にはいかない。
だが義光は
小野寺家軍師であった
八柏道為を
その得意の陰謀により
主君、小野寺義道の手によって
無実の罪で
殺させてしまい
そのあと
すぐに義光家臣
楯岡満茂による
総攻撃により
小野寺家の重要拠点であった
湯沢城を陥落させてから
鍋島城とか岩崎城や今泉城とか角間城とか
もはや、、ほとんど
聞いたことのないお城である
小野寺家の拠点を
次々と堕としていく。
その戦いのなかで
この稲庭城も
1596年(文禄5年)
ついに最上軍により
攻撃を受け落城し、、、
そのまま、、
廃城となってしまったという。
そしてこの夫婦マツ。
、、、、このとき
稲庭城の城主であった
小野寺道勝。
彼はこの稲庭城において最上軍と
激戦を繰り広げたというが
、、この松を植えたのち
この城を捨て、、
逃亡したという。
その後の道勝、、、どこに行ったのかは
分かりませんけれど
どこかで、、、
ひっそりとどこかのお寺で
最上家の滅亡を
呪っていたという噂もあります。
しかし、、、
鎌倉から続く先祖代々の
小野寺氏発祥の地を
最上義光に奪われてしまった。
横手城に本拠を構えている
小野寺家当主
小野寺義道、、、
しかも、、
最上義光の謀略によって
重要な側近であった
八柏道為は騙され殺されて、、、
小野寺義道の恨みは
どうみても
最上義光にむかっていく、、、
そして、、、、、遂には
あの関ヶ原の戦いと同時に
慶長出羽合戦と呼ばれる
北の関ヶ原が勃発。
そのとき
雄勝郡を奪われ
少しづつ衰弱の道を
辿っていったという
小野寺家。
はるか美濃の地で行われる
関ヶ原の戦い、、、
この東西に分かれた天下分け目の
いくさにおいて
小野寺義道は
東北の地において
聖地を取り戻すべく
大きな賭けに出たという、、。
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