1584年

岩崎城

愛知県 日進市にある

お城の跡には

いま、綺麗なお城が建っています。

もともとこのお城は

織田信長の父

織田信秀が

尾張最東部の

前線を守るべく造ったといわれます。

 

写真撮り忘れたが

もっともっと前には

6世紀ごろの古墳の跡も残っていました。

それはともかく、、

ちょうど室町幕府が徐々に衰え

応仁の乱が起こり

混乱の時代に突入していくころ

尾張守護大名

斯波氏では

家督争いが繰り広げられ

その家臣

守護代織田家も

 

岩倉城を本拠に伊勢守家

清洲城を本拠に大和守家に分断され

尾張内部の擾乱が始まったといいます。

 

そんななかで現れる

大和守家の奉行

織田弾正忠家。

 

織田信長のおじいちゃん

織田信貞が

そのころの港町

津島を支配しはじめ

 

守護代を凌ぐほどの

豊かな経済力を武器に

勢力を伸ばしていき

信貞が本拠とした城が

勝幡城と呼ばれるお城。

(このお城で織田信長は生まれたらしい、、)

そして

信貞の息子

 

織田信秀。

彼は今川氏から

那古野城を奪い

 

尾張守護代に対抗するがごとく

熱田をも支配しはじめ

さらに勢力を拡げている時

 

隣の三河では、、、、

徳川家康のおじいちゃん

松平清康が台頭しはじめる。

 

尾張寄りの三河で

幾つかに分かれた松平家、、

 

安城城から松平清康は

若干13歳で家督を継ぎ

西三河から西へ東へ支配を拡げ

 

岡崎城に本拠を移し

三河国の統一を

果たしたという。

 

だが、、

 

清康の叔父であった

松平信定はどうも

清康に服することを潔しとしなかったらしく

織田家と深く通じていたらしい。

 

そんな三河統一の

破竹の勢いの中で

この岩崎城を攻め落とした

清康。

その織田家を後ろ盾にしていた

信定かその背後の何かにより

松平清康は突如

自らの家臣に刺殺されたという。

 

守山崩れと呼ばれた事件、、

 

25歳の若さで死んだ

清康。

残された彼の息子は

幼名 竹千代?千松丸?と呼ばれた

松平広忠。

まだ10歳の少年。

 

彼は

本拠であった岡崎城を脱出し

城は大叔父となる松平信定が

新たな当主となったといわれるが

 

松平家の後継であった広忠は

父、清康の妹婿を頼りに

 

伊勢国に逃げたが

その広忠に

手を差し伸べたのが

 

三河の隣国であり

駿河遠江二ヶ国の

戦国大名 今川義元。

 

その後彼は元服し

義元のとりなしにより

 

松平広忠は岡崎城を

奪還したというけれど

 

今川義元がこれまでの

広忠の支援の見返りとして

求めたのは息子であった

竹千代、わずか6歳。

 

竹千代は今川家への人質として

岡崎城を出発した。

 

だがしかし、、

またもや身内から現れた

裏切り者の手配により

竹千代は、、

織田信秀の策謀により

奪い取られて

織田家の人質となってしまう。

 

その竹千代こそ

、、のちの征夷大将軍となる

徳川家康。

 

なんともいえない

波乱に満ちた綱渡りのような

幼少時代、、

彼は

しばらく

織田家と今川家との狭間において

桶狭間の戦いに至るまで、、

いや多分そのあとも

強者によって

翻弄されていく、、、

 

そしてこのお城。

 

家康の祖父、清康が殺されたという

守山崩れのあと

今川、織田両軍の混乱のどさくさに紛れ?

入城したのは

もともとこの辺りの土豪のような

立場であった

丹羽氏清

と呼ばれる武将。

ここから丹羽氏はしばらく

この城を拠点に戦国の時代を

生き抜いていくこととなる。

 

その丹羽氏のなかでもこのお城で

身内の争いもあったといわれますけれども

 

まだまだ混乱が続く時代背景のなかで

起こるのは有名な攻防戦。

 

1584年(天正12年)

「小牧長久手の戦い」

 

天下を織田家から簒奪しようとする

羽柴秀吉と

 

その秀吉を逆賊とする大義名分のもと

織田信雄、徳川家康

連合軍とのいくさ、、

 

秀吉軍は

織田信長の乳兄弟であった

美濃大垣城城主

池田勝入恒興を

味方に引き入れ

池田勝入は功名の手始めに

犬山城を急襲し陥落させます。

その勢いに乗って

そのころ東濃のあたりで

大暴れをしたという

勝入の娘婿であった

「鬼武蔵」

森長可も

このいくさに参戦。

 

彼も功名を得ようと気を焦ったかどうか

 

総大将である羽柴秀吉が

まだこの尾張の地に

到着していない状況で

 

さきに池田勝入が奪い取った

犬山城から

敵将 徳川家康率いる

 

小牧山城を目指し

三千人の兵とともに

南へ向かう。

 

「羽黒の戦い」

 

と呼ばれたこのいくさは

意気揚々と

民家を焼き払い突き進んでいく

 

鬼武蔵軍の動きは

徳川軍につつぬけであったらしい。

 

羽黒 八幡林という地において

駐留していた

鬼武蔵を潰走させたのは

 

家康の父、広忠から仕え

歴戦の雄として家康の幼年時代から

つねに側で支え続けていたという

徳川四天王のひとり

 

酒井忠次。

そして奥平信昌や

榊原康政や松平家忠ら、、

 

そんななかに

丹羽氏次という武将もいます。

 

彼こそ

この当時の

岩崎城城主であり

この戦いにおいて

織田、徳川軍に味方し

氏次は岩崎城の守備を弟に任せ

 

それが丹羽氏重。

まだ16歳、、、

 

氏重のそばにいるのは

長久手城城主

加藤忠景。

氏次、氏重の姉婿であり

姉との間に生まれた娘は

氏次の妻で、、、

恐ろしい程結束が固いのはいいけれども

 

義理の兄と義理の父を兼ねていた

ちょっとなんだか

訳のわからない

忠景もこの岩崎城に入り

羽柴勢に対し守りを固めていたといいます。

 

小さな砦が犬山城から小牧山城の間に

いくつも築かれて

 

膠着してしまった戦線、、、

羽柴軍は

尾張楽田城から

小牧山城に籠る主君不在の家康の本拠地

 

東の三河を奪い取ってしまおうと作戦を立てる。

 

その進軍の途中、、

このお城では

 

少年武将 氏重や

、、もはやこのころ自らの城

長久手城も落城してしまっていたという

報を聞いていたであろう

加藤忠景。

身内の安否も心配であったと思います。

 

 

そして、この岩崎城から彼らは

僅か300人にも満たない

兵たちと出撃し

三河へ向かおうと

何千人もの部隊を率いていた

池田恒興や鬼武蔵らに立ち向かう。

 

 

この三河への進軍を阻むべく

時間稼ぎにしかならないと

通り過ぎる先鋒池田軍へ

 

鉄砲を打ちかけたといわれる

丹羽氏重率いる300人足らずの兵たち。

 

果たして

どんな気持ちで

死を覚悟し岩崎城を出たんだろうか、、

 

、、そして、丹羽氏重や加藤忠景らは全滅。

 

しかしその同じ頃

三河へ向け

縦列に進んでいた

家康はこの部隊を

分断する作戦を決行。

 

岩崎城において丹羽氏重が

300人で

池田勝入、息子の元助軍六千の兵と

決死の戦いを行ない

池田軍は快勝し

首実検とかを行なっている最中か、、

 

進軍部隊の最後尾であり

総大将 羽柴秀次率いる八千の兵たちが

白山林という地で

のんびり?

朝ごはんを食べていたらしい。

 

、、、このあと

 

先鋒池田勝入らが

勝利に浮かれているなか

 

徳川四天王 榊原康政や

さきに弟、氏重の岩崎城での討死の報を聞いたかどうか

丹羽氏次らによって

 

大軍を率いていた総大将秀次は

奇襲を仕掛けられたという、、。




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