1584年

庄九郎塚

かつて、、

池田元助と呼ばれた武将が

討ち死にしたといわれる場所

愛知県長久手市にある

有名な古戦場の跡に

今も

ひっそりと残っています。

羽柴秀吉が

本能寺の変から

 

主君織田信長の

仇討ちを敢行し

 

山崎の合戦において

明智光秀を打ち破り

 

そのあと、賤ヶ岳の合戦において

織田家の筆頭家老

柴田勝家を

北ノ庄城において討ち果たしたあと

勝家とともに岐阜城から挙兵した

 

信長の三男、織田信孝、、

彼は

 

その賤ヶ岳の合戦において

同盟者、勝家が敗れたあと

兄弟仲の悪かったといわれる

信長次男の

織田信雄の名のもと

尾張知多郡野間に護送され

 

秀吉への呪いの辞世を残し

むりやり

切腹されられたといいます。

 

伊勢長島城で抗戦した

滝川一益も、、、ついには降伏し

彼に逆らうものはいなくなっていく、、

 

もはや織田家中において

実質上、実権を握りつつある秀吉。

 

だが、、信雄もようやく

羽柴秀吉の行動に

疑念を抱き始める、、、

 

あいつは織田家を

乗っ取るつもりではないかと、、

 

北陸を制した秀吉は

論功行賞において

 

兵を一兵も賤ヶ岳へ出さなかったという

織田信雄に

北伊勢や伊賀を加増し

百万石もの領地を得た

信雄は

安土城において

織田家の正統な後継者である

わずか4歳の三法師の後見人となる、、

 

が、しかし彼は

安土城を追い出されちゃったらしく

そのあと、、

 

筆頭家老 羽柴秀吉の国盗りの野望を

挫くべく

伊勢長島において

いくさの準備を進めていく。

 

だがもう羽柴秀吉の天下取りの

勢いは

誰も止められないからよせと

織田家家臣であった

信雄の3人の家老がそれを諌めるが

信雄はその家老たちを皆殺してしまい

 

秀吉との断交に踏み切り

ある大名と

共同戦線を張ることとなります。

 

本能寺の変のあと

ひっそりと、、、、

その秀吉の華やかな

立身出世の物語の舞台裏で

 

織田信長が奪い取ったばかりの

武田の遺領であった甲斐、信濃を

切り取り、少しづつ我がものとし

その頃には、、

五ヶ国の大大名となっていたという

徳川家康。

 

織田信雄と徳川家康はともに

秀吉を屠るべく手を組み

 

四国の長宗我部元親や

越中の佐々成政

紀州の鉄砲集団 根来衆 雑賀衆

また、関東の北条氏政らを

味方につけながら

羽柴秀吉包囲網を

築いていったという。

 

主家である織田家にとって

逆臣となる羽柴秀吉、、

 

しかし農民の身分から、、這い上がった

そのときの秀吉以上の勢いと力を持った

織田家家臣は

ほかに誰か、いたのであろうか、、、

 

そして秀吉、、

ある織田家の宿老に味方にならないかと

声をかけたという。

 

それが

池田恒興と呼ばれる武将。

 

彼は織田家との縁がかなり濃く

織田信長の乳母が

恒興の母親であったことで

それはもう、、、

 

幼小の頃からずっと

信長の側に兄弟のように

そばにおり仕えたという恒興、、、

 

あの信長の弟である信行を

暗殺する際にも加わったという

話もあります、、

 

もう誰がどう見ても

信長の弟分のような

この男は織田信長が

尾張の片隅から

その勢力を拡げていく

凄まじい過程を

ともに

目の当たりにしていったであろう、、。

 

恒興はその信長のそばで

桶狭間の合戦や美濃攻略、姉川の戦いとか

一緒に比叡山を焼き討ちしたり

のちには摂津花隈城においても

裏切り者の荒木村重を破るという

武功を挙げ、、

 

そして

本能寺の変において

その義理の兄?が横死したあと

羽柴秀吉が中国攻めから

舞い戻って明智光秀を討つべく

天王山に向かうとき

恒興は秀吉軍に合流。

淀川沿いから明智軍を攻め立てて

その勝利に貢献したという。

 

そのあと、織田家の当主を決めるべく

清洲城での会議に参加したあと

賤ヶ岳の戦いが起こり、、

恒興は

このいくさには参戦しなかったようですが

戦後、大垣城城主として美濃13万石を拝領し

恒興の長男で

20代の若者であった

池田庄九郎元助。

岐阜城の城主となる、、、

そんな頃、、

織田信雄、徳川家康軍と

ともに闘わないかと

秀吉から誘いの使者が池田恒興のもとにやってくる。

しかし、、、

恒興にとって

これまでの彼の人生を考えれば

織田家への恩義は捨てがたい、、

 

織田信雄が挙兵するとなると

そちらに味方しないわけにはいかないのでは、、

しかし秀吉は恒興に

こう告げたという。

 

もし織田徳川軍とのいくさに勝利した暁には

尾張一国、、、(美濃や三河もという話もあります)

を池田恒興のものとして差し上げるという

逆賊の汚名よりもこれまで以上の利を得られる

話が転がってきたといいます。

 

織田徳川軍につくか

それとも今勢いに乗る羽柴秀吉につくか、、

 

恒興は部下たちにも相談したというが

その部下たちの意見も真っ二つに割れたようで、、

 

恒興のある家臣は

義を踏み外し織田家への恩義を忘れるなと

意見をし

 

またある家臣は

今の秀吉の実力はどの大名よりも強く

彼はいずれ天下人となる。

秀吉に従ったほうがいいと意見する。

 

 

、、池田恒興の決断。

 

それは

彼の人生とともに

その後の池田家の運命を決定づける、、、

 

その小牧長久手の戦いの

はじまり、、、

池田恒興による

奇襲から

小牧長久手の戦いの

幕開けとなるという。

 

1584年(天正12年)

3月13日、、、

羽柴軍に味方すると

決めた恒興は

突如

尾張犬山城を攻略。

 

そのときの

犬山城城主は中川定則という

織田信雄の家老であったというが

だがその中川定則

、、、

この犬山城が

池田恒興に奇襲を受けたとき

彼はこの城にはおらず

 

その頃、北伊勢において

織田信雄とともに戦っており

 

城主不在の犬山城は

池田軍により

わずか1日で

落とされたといいます、、、

 

しかし、、、、

自分がはるか三重県の地にいて

城にいない間、、、

 

 

我が家?(城)が奪われたという

報をおそらく聞いたであろう

中川定則、、、

 

、、きっと妻や子や家臣たちも

いたかもしれないが、、、、

この時の彼の気持ち、、

想像するとたまらんですね、、、

 

それは、、ともかく

池田恒興はもはや

織田家の裏切り者という

汚名を着せられることを憚ることなく

 

奪い取った犬山城を占拠し

(もともと恒興もこの城の城主だったことがあるらしい)

まだ、、

大阪の方にいたという秀吉の到着を待つ、、

 

ちょうどこのころ

徳川家康は

清洲城に到着、、

 

だがこの犬山城陥落の報を聞き

すぐに

 

小牧城を占領して

羽柴軍との大いくさに備えることとなる、、

 

このあたりで

池田恒興の娘婿。

 

本能寺の変において

3人もの弟達を失い

 

そのあと美濃の東、、

東濃において

暴れまわっていたという

鬼、、、

 

森長可が

美濃金山城から進軍し

羽柴軍に合流、、

 

舅であった池田恒興のもとに

馳せ参じたという、、、

 

しかし、、

長くなっちゃったので

次回に続きます、、。

しかし、ヤンマガのセンゴク、、

この長久手の戦いにおける

池田家の決別のシーン

 

泣けてくる、、、

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