徳川家康が
関ヶ原の合戦に勝利したあと
かつて、、権力の象徴であった
岐阜城を
忌み嫌い壊してしまい
その廃材を使って
美濃の本拠地を
加納城へ移したといわれます。
江戸時代になると
このあたりは
あの家康の娘婿で
長篠城攻防戦において
活躍した
奥平信昌が
初代加納藩藩主として
岐阜の地を治めていく、、
、、しかし
室町から戦国の時代にかけて
難攻不落と呼ばれた
このお城は幾度となく
いろんないくさに
巻き込まれ
落とされていったという。
岐阜城の歴史のなかで
20人近くもの城主が
入れ替わり立ち替わり
しかも
そのほぼ大半の城主たちは
次々と討ち死にしたり
自殺したりと
どうも、、、
いわくつきのお城であったようです。
いま金華山の山頂にある
お城、、
かつて、、、稲葉山と呼ばれた
鎌倉幕府の執事であった
二階堂行政という武将が
はじめて稲葉山に
この城を築いたといわれます。
室町の時代には
今の福井県あたりでしょうか?
越前から転がり込んできた
斎藤氏、、
ときの美濃守護大名
土岐氏に仕えて
重臣となっていったという。
そして、、
まだ戦国の世が始まる前から
もはや下克上の如く
野望を抱いた武将もいたようで
あるとき、その時の美濃守護代を誅殺し
その守護代の座を我がものとしたという
斎藤宗円。
その息子である
斎藤利永が宗円のあとの
美濃守護代を継いで
稲葉山城を修繕、、。
美濃の守護大名である
土岐家、、、
幾度も内紛が勃発した事で
その影響力は弱まっていき
ついには
斎藤利永の弟
斎藤妙椿は
土岐家を利用しながら
その、主君をも凌ぐ
権力を得ていったといいます。
その主君、守護大名土岐氏は
もはやその名や立場を利用され
部下の傀儡と化していった
状況が続いていく、、、
そんなある日、稲葉山城城下にある
常在寺において
守護代の部下、小守護代であった
長井長弘は
松波庄五郎という油商人と出会う。
長弘は
彼をどう見ていたのか知りませんが
松波庄五郎という
得体の知れない油売りを気に入って
名を変えさせて
長井新左衛門尉と名乗らせ
長弘の部下として
ときの守護大名
土岐政房の次男
土岐頼芸の家臣へと
推挙したといいます。
美濃守護の後継者争いは
これまでも、、ずっと続いており
斎藤妙椿亡き後、、
兄であり早逝したという
斎藤利永の息子で
妙椿の甥となる
母は違えど兄弟であった
斎藤利藤と、弟の斎藤妙純の
船田合戦と呼ばれる
他人を巻き込む兄弟喧嘩は
土岐家の後継を誰にするかの
代理戦争、、、
土岐成頼の長男
土岐政房が父である成頼から
疎まれた事から始まって
政房の弟である
元頼を自害へ追い込んだという
この骨肉の争い。
だがそのいくさに勝利し
美濃守護大名となった
土岐政房は
父となり、、
年老いてから
再び同じことを繰り返す、、、
政房の長男である土岐頼武。
彼もまた父政房に疎まれたという。
政房は頼武の弟
頼芸を溺愛し
頼芸を次の土岐守護大名として
後継者として推し
長男、頼武を排すべく
弟、頼芸を支持したという
長井長弘とその部下
長井新左衛門尉、、
頼芸の兄であり
本来であれば後継者である
頼武を
越前に追い出してしまい
長井長弘は
ついにこの稲葉山城も占領する。
だがその長井長弘の部下
長井新左衛門尉。
、、の息子といわれるのが
長井規秀。
彼はその父の
出世の恩人であった
長井長弘を殺してしまい
ついには、、
この稲葉山城を我がものとしてしまったという。
長井新左衛門尉の息子
長井規秀。
彼はこの稲葉山に新たに城を築いて
油商人の息子は、、、
美濃の地で由緒ある
だけれども
全く血も繋がっていなかったという
「斎藤」の名をみずから貰い受け
斎藤利政と名乗り
この稲葉山城の城主となる。
みずからの謀略をもって
土岐頼芸を
その傀儡の守護大名として
のし上げた挙句
その頼芸を
しまいには美濃から追い出してしまい
斎藤利政は
のちに
斎藤道三と名乗る、、。
しかし
麒麟がくるのモックン、、
配役が出た時、感嘆の思いで
はたしてどんな斎藤道三が
観れるのだろうと
ずっと楽しみにしていましたけれど
1月26日の夜に放送されて
リアルタイムで観た
斎藤道三は
想像を遥かに超え
ほんとうに久しぶりに
テレビの画面に釘付けになり
トイレもタバコもいく時間が勿体無いくらい
あっという間の45分間で、、
、、それはともかく
道三は木曽川から
攻め込んでくる尾張の
織田信秀を追い散らしながらも
やがて同盟を結ぶ、、、
道三の息子である
義龍は、、
父には認められず
親子の分かり合えない
悲しさや悔しさもあったかもしれない。
父との決別を決断した義龍は
長良川において
父を葬り
その美濃国の跡を継ぎ、、
そして、木曽川を挟む尾張では
、、、どうしても
美濃国が喉から手が出るほど欲しい
織田信秀から代が変わりその息子
織田信長。
何度も美濃国へ攻めいくが
親子揃って、、
この道三と
その跡を継いだ義龍は
思いのほか強敵で
信長は美濃国へ
踏み込むことができない状況、、
だがしかし、、その斎藤義龍。
残念ながらその織田信長との戦いの最中
35歳の若さで急死してしまった、、
義龍の息子
14歳の龍興が
その美濃の地と斎藤家を継いだけれども
、、、
龍興は
酒色に溺れて
政務は
自分好みの側近に任せ、、
かねてからの家臣たちは
龍興に対し不信感が高まり
その結果、、
この難攻不落と呼ばれた岐阜城、、
あの竹中半兵衛と安藤守就ら
僅か16、7人の武将たちによる
クーデターにより
お城を乗っ取られちゃったらしい。
龍興は逃げに逃げたあと、、
半年くらいしてから
なんでかは知りませんが
半兵衛らは稲葉山城を龍興に返還し
斎藤龍興は稲葉山城城主に復帰、、、
なんだか還す方も還される方も
それを聞いている他人でも
なんとも言えない
気まずい気分にはなるが、、、
それから、織田信長の調略や猛攻もあり
この稲葉山城は織田信長に落とされ
信長は
この地を岐阜と名付け
稲葉山城のあった城は
岐阜城と名を改められ
美濃は織田信長が支配する事となる、、
そのあとの、、、道三の孫である
龍興は打倒織田を唱え
長島の一向一揆に出陣したり
朝倉義景とともに
織田家に抵抗するけれど
日の目を見ず26歳の若さで
殺されたか戦死したか、、、
そして、、、
ついに美濃を制し岐阜入城を果たした
織田信長。
このあたりであの
天下布武の朱印を
用いる事となったという。
これは岐阜城のなか
もう、織田信長だらけです。
、、、
そして以前、、紹介した
たしか岐阜市の市役所にあった
↑↓このリアルな織田信長、、、
岐阜城の資料館の頂上にもおられました。
その、、、、
、、、ほくろとかもあるので
気になる
この信長のモデルはだれかと
案内係の方に聞いたら
どうも
むかし大河ドラマで織田信長を演じたという
高橋英樹であったことが判明、、
また、「麒麟がくる」
大河ドラマ館が岐阜城の麓にあります。
小牧山からこの岐阜を
本拠地とした
織田信長は
1576年(天正4年)に安土城へ移るまで
約10年間のあいだ、この岐阜城を拠点に
将軍義昭に協力し室町幕府の
再興計画を推し進めていくなか
伊勢長島攻略や延暦寺焼き討ちとか
朝倉、浅井、本願寺との戦いに明け暮れ
天下を我がものとする戦略を展開。
やがて、信長の息子
信忠がこの城の城主となるけれども
本能寺の変において
信長、信忠親子は斃れてから
岐阜城はその歴史のうねりに
巻き込まれながら
幾人もの武将が
城主となっていった、、。
お城の脇では
元気なお年寄りとか、人たくさんの人たちが
金華山の登山をし
岐阜城の頂上で休んでおにぎりとか
食べていました。
とても登山する元気はないが、、いいなあ、、
また、最近地元の新聞とかニュースもよく目にする
岐阜城の遺構は
まだまだ発掘調査中、、
最後に、岐阜城が
長き戦いに巻き込まれる歴史に
ピリオドを打つ事となるのは
関ヶ原合戦の前哨戦。、
そのときの岐阜城城主は
かつて清洲会議で
三法師と呼ばれた
織田信長の孫である
織田秀信。
彼は西軍 石田三成の誘いに
応じ西軍に味方したことで
徳川家康率いる東軍諸将たち
1600年(慶長5年)
8月22日尾張清洲城から
池田輝政、福島正則はそれぞれ一軍を率いて
二手に分かれ岐阜城へ攻め込んで行く、、、
その数3万5000人、、、
池田輝政隊は上流であった
河田から北の岐阜城へ向かい
福島正則隊は清洲城の西から迂回し
下流の尾越から
回り込んでいく事となる、、
ともに木曽川を
同時に渡河したのち
合流後に岐阜城総攻撃の
約束をしたという。
だが上流から進軍していく
池田輝政、、
福島正則との
約束をあっさりと破って
どんどん木曽川を
渡っていってしまって
河田、米野と待ち構える
織田軍軍勢を
次々と打ち破り
突き進んでいっちゃったという、、。
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