愛知県 新城市にある
あの有名ないくさのあった
お城のあと。
かつては寒狭川、大野川と呼ばれた
豊川と宇連川というふたつの川が
東と西から流れ
南へ合流する逆三角形▽の
狭間となっている場所であり
ちょうど東海道と信州を繋ぐ
唯一の街道の通りにある
このお城は
1508年(永正5年)
菅沼元成という武将により築かれたという。
その奥三河と呼ばれる
山間のあたりには
山家三方衆といわれる
田峯 菅沼氏
長篠 菅沼氏
作手 奥平氏
その小さな土豪たちは
ときに味方、、ときに敵となりながらも
奇妙な同盟を結び
外部の強大な敵から
お家を守るべく団結して
このあたりを支配していたといいます。
ところで、、
長篠城の駐車場に車を止めて
歩いてお城の跡へ向かう途中
長篠の戦いの決戦地
設楽原において敗れた
武田勝頼のさかさ桑なるものが
植えられています。
武田勝頼の父
武田信玄が
将軍足利義昭や
加賀の一向衆たち、、
北近江の浅井長政
越前の朝倉義景
松永久秀やら摂津三好三人衆や本願寺らと
手を組み東から西から
契りを結び
ある戦国大名を屠るべく
侵攻してくる。
彼らの目的は
尾張の小大名から
怒涛の勢いでその領土を拡げ
ついにあの美濃までも我が領土とし
比叡山延暦寺において
焼き討ちまで行なったという
織田信長。
その信長の領土のそば、尾張の東にある
ちいさな三河の地において
織田信長と同盟を
結んでいたのが
徳川家康、、、
本願寺顕如からの挙兵を要請され
顕如の義理の兄であった
武田信玄。
もともと織田、徳川と同盟を結んでいて
国境、大井川を境に
ともに侵略をしないように
約束していたというが、、
その約束を武田信玄は反故してしまう。
、、、
西上作戦と呼ばれる
甲斐国から武田信玄は
織田、徳川領へ侵食していき
数々の城や砦を奪っていく。
先陣を切ったのは 山県昌景
彼は奥三河に入りその山家三方衆の
協力を得ながら南へ向かい
そのころ徳川家康の居城であった
浜松城の北にある
二俣城へ、、、
山県昌景とともに出陣し
信濃で道中別れて
東美濃へ向かう
秋山虎繁。
彼はあの女城主、おつやの方がいる
岩村城へ。
信玄本陣もそのあとゆったりと
浜松へ向かいながら次々と
城を踏み潰していく、、、
そして浜松城のそばにある
二俣城へ、、、、
集まってきた別働隊とともに
城を囲む、、
その数3万人
浜松城のそばに迫り来る
圧倒的な兵力の武田軍に
脅威を抱く家康は
信長に援軍を頼むが
信長もその包囲網により
多方面で苦戦を
強いられている状況で
それどころではなかったらしい、、
佐久間信盛が率いる僅かな兵を
徳川軍のもとへ派遣。
その浜松城のなかで
目の前でどんどん
武田軍が大量に増えてきている報告を聞いた
家康は、、、このあいだどんな思いが
駆け巡っていたのであろうか、、。
浜松城で籠城し
武田軍3万の兵を足止めして
浜松城包囲戦から
織田軍の援軍を待って
織田進撃軍が攻め寄せてきたときに
武田軍3万人を分断してから
決戦に挑んでいくか。
それとも、、
一度出撃し
そのあと浜松城に戻って
武田軍を引きつけて籠城をするか。
、、それならば同盟者であり
援軍を寄こしてくれた
織田信長への面目も立つ、、
出撃か籠城か、、
多くの諸将達が軍議のなかで
自らの意見をきっと言い合い
家康は黙って彼らの話を聞き
思案する。
だがしかし
そんな悩んでいる家康たちを尻目に
武田軍はその目の前の浜松城へ進軍を開始する、、
が
その浜松城を攻めてきた兵の数は
その3万人から割いたわずか
300人だけだったという。
本軍の3万人の武田軍は浜松城を通り過ぎて
西の織田領へ向かってしまう。
浜松城にいる徳川兵は
11000人もいる、、
攻め寄せてきた
僅か300人の武田軍との戦いにおいて
籠城戦を繰り広げるなど
世間にも信長にも
面目が立たなくなってしまう、、、、
しかもその武田軍300人の兵達は
まともな武器すら持たず
そのへんにあった石ころを
浜松城へ投げるという攻撃をしてくる、、、
完全に家康を舐めきっている武田軍。
信玄はもとから家康は眼中になかったのかどうか、、
だがしかし、、
家康は悩んだ末に行動を起こす。
武田軍本隊が西に進む最初の目標は
堀江城。
三方ヶ原を通り過ぎて下り坂の
祝田の坂を進むころに
徳川家康は
その300人の攻城軍の挑発に乗ったのか
それとも織田への同盟国としての約束を守ろうとしたのか
それとも戦国武将としての面目を果たすためだろうか
ごちゃまぜであったはずの
葛藤を胸に
ついに
浜松城を通り過ぎた
武田軍の背後を襲うべく
徳川軍は僅かの兵を浜松城に残して
決死の追撃を仕掛ける。
その家康の作戦を
見透かす武田信玄、、、
三方ヶ原において
武田軍3万人が
徳川軍1万人を
陣形を構え待ち受けていたという、、、。
三方ヶ原の戦いにおいて
結果的に武田信玄の挑発に乗る家康は
それなりの面目はたったであろうが
大惨敗を喫し武田軍を
織田信長との決戦に向けて
西へと向かわせることとなる。
と、、
、、その予定ではあったが
突如、武田軍は兵をひるがえし
甲斐の国へと戻っていってしまったという。
何が起きたのかは理解できない
信長、家康、、、
その織田包囲網において織田軍と敵対する
信長を囲む大名たちも、、、
、、その進軍のなか
信玄は病を発して
その西上作戦を中断。
甲斐へと戻るその途中に
信州駒場で息絶えたといわれます。
信玄の跡を継いだのは
孫の信勝、、、
だがまだ14歳の少年であったがため
事実上その信勝の父
信玄の四男
勝頼が跡を継ぐこととなる。
、、神の如き仰がれた父である
信玄の遺産を背負う
勝頼のプレッシャーは
相当なものだったと思います、、。
信玄はその死に際
勝頼に遺言を残す。
自分の死を3年は世間に隠し
孫の信勝が元服するまで
武田家を勝頼が継ぎ
その武田家の領土、、
今でいう
山梨県と長野県と
群馬県や静岡県のそのほとんどを
これからも守るよう
指示したといわれます。
また信玄の側にいた
先代からの幹部たち、、、
馬場信春や山県昌景やらの言うことを
よく聞くのだと念を押されたという、、、
武田勝頼、、
武田家の領主となったはいいが
その環境においては
自分の力や才能を
発揮することもできないような
鬱憤やら何やらあったのかもしれない。
それが、、、
彼にとっては
面白いはずもなく
父親の名声があまりにも大きく
その宿老たちから
父親と比べられ
押さえつけられ
武田勝頼の実力は全て
父、信玄の威光をかさにきたものだと
陰口も言われたかもしれません、、
、、、
しかし、、ここまでで書こうと思った
長篠の戦い、、
これ以上書くと
長くなりそうなので
自分でも書いてて
要領を得ない状況ですが
疲れたので次回に続く、、。
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