秋田県の南のあたり
横手市にある
横手城の
大手門跡にひっそりとあるのは
八柏道為と呼ばれた武将が
命を落としたと
いわれる場所、、、
彼は戦国の世において
この秋田県県南あたりを領する
小野寺輝道とその息子
義道の2代に渡って
仕えたといわれます。
鎌倉時代からこの地を治めて来たという
小野寺家は
没落の一途を辿りそうな
状況のなかで復活し
再び最盛期の時代を築くこととなるというが
そのなかで、、、
戦国の時代に
知謀に優れ
周囲の大名からも
畏怖されていたという
軍師、八柏道為の
評判は凄かったらしい、、、。
が、、残念ながらこの橋のあたりで
彼は殺されてしまう、、。
、、、殺したのは主君
小野寺輝道の息子
義道、、。
小野寺家を常に支え続け
忠義を尽くした武将の末路は
なんとも悲しい、、、。
小野寺家13代当主
輝道は少年のころ
家臣の争いに巻き込まれ父を殺され
横手城を奪われてから、、、
秋田を離れ
庄内の大宝寺家に保護されたというが
八柏道為が
その敵討ちに尽力し
輝道が横手城城主として
復活を遂げ
小野寺家の
復興と拡大に尽くしていく、、。
輝道は
八柏道為を深く信頼し
県南の重要拠点であった
湯沢城を道為に任せ、、
、、、それはもう、、小野寺一門における
家族のような扱いであったらしい。
1586年(天正14年)4月、、、
そのころ庄内地方を我が物とすべく
最上義光が
越後の上杉景勝軍へ向け
南への総力戦を敢行する。
だがそのタイミングを突いて
父、輝道の跡を継いだ
小野寺家14代当主
義道が
北から最上領へ攻め込んで来たという。
横槍を入れられた義光軍は
有屋峠と呼ばれる
秋田県と山形県の県境のあたり、、
道は狭く険しき地において
迎え撃つ、、
この戦いにおいて
八柏道為は策を講じ最上軍を挑発しながら
数多くの最上勢を討ち取ったといわれます。
しかし最上軍も負けてはいない、、、
かつて秋田県の最南端において
小野寺家の客将であり
また小野寺義道のいとこであった
鮭延秀綱、、
、、県境にお城を持つ人は大変です、、、
いろいろあったんでしょうが
その頃はもう
最上義光の家臣となっており
この有屋峠において
小野寺家を相手に
武勇を奮い、こののち
あの北の関ヶ原とも呼ばれる
長谷堂城の戦いにおいても
上杉景勝の家老
直江兼続を相手に
激戦を繰り広げることとなるという、、
それはともかく
1590年(天正18年)、、、
東北において
戦国時代の終焉が近づいてくる、、
奥州仕置と呼ばれる
小田原 北条家を滅ぼした
豊臣秀吉は天下統一を果たし
東北において猛威を振るった
伊達政宗も
最上義光も、、
かなうわけがないので
みな秀吉に従う、、
天下人 秀吉から
もはや、、
奥羽において
勝手にいくさをするなと
惣無事令を出されたうえ
奥州仕置により
東北の大名たちの
領土統治においての命令、、、
誰も逆らえません。
、、、しかし秀吉は
小田原から
そのまま宇都宮まで行って
たった5日間で
秀吉は広大な東北の地を
ちゃっちゃっと振り分けたらしい、、、
、、、
半年にも及ぶ
小田原の陣において
長い戦いが続いたからか
秀吉は
もう、、、疲れたか面倒臭くなったのか
はやく、、
聚楽第に帰りたかったのかも
知れませんね、、、
だが
今回の大名の配置換えと
太閤検地が行われたことで
民衆たちにとっては、、、不満が爆発し
一揆が頻発したらしく
横手、湯沢あたりの百姓たちも
武器を持って立ち上がったという。
この仙北一揆と呼ばれる
責を咎められたのは
横手城城主 小野寺義道。
秀吉の命により所領を削られてしまい
先祖代々の土地を
最上義光に奪われてしまう、、
義光は所領の一部となった
秋田県の南、雄勝郡や平鹿郡の
領有権を主張するが
小野寺義道は譲らない、、、。
そして小野寺家には知謀の将であり
忠義の臣
八柏道為の存在が
脅威であったらしく
業を煮やす義光、、、、
1595年(文禄元年)
八柏道為が最上義光に
内通しているという噂が流れ、、
その裏切りの書状も
小野寺義道の目に触れることとなったという。
父の代から小野寺家に忠義を尽くした
湯沢城主 八柏道為は
主君 義道に呼ばれて
横手城へ向かったとき
この大手門前の橋で
殺されたといいます。
だが、、、
その道為にかけられた謀反の疑いは
最上義光の謀略によるもの、、、
最上家家臣 楯岡満茂が
この噂を流し、、、偽の書状を作り
まんまとこの罠に嵌ってしまった義道、、
、、、それが最上の陰謀だと
聞いた時の義道の
衝撃と後悔は、、、、、はたして
いかがなものだったのか、、、
そして
八柏道為という大きな障害を
小野寺家から抹殺した
最上軍の総大将 楯岡満茂は
ついに小野寺領へ侵攻していきます、、、。
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