1467年(応仁元年)
小さな身内の戦いから始まったという
応仁の乱、、
10年ものあいだ続いた戦乱は
このころには
世界有数を誇ったといわれる大都市
京都も焼け野原となり
足利幕府の権威も
どんどん地に堕ちていく時期、、
そして美濃では
守護大名として美濃を支配し
南北朝時代から長きに渡り続く
名門土岐氏。
なんどもなんども
お家騒動が繰り返される、、。
土岐氏の長男で
跡取りであった
土岐政房は
父である土岐成頼から疎まれ
弟である元頼との後継者争いが勃発、、、
1495年(明応4年)
以前に紹介した
岐阜の正法寺というお寺の境内で
敵味方が対峙し
戦いの火蓋が切られることとなった
船田合戦。
この戦いは長男
土岐政房が勝利し
美濃守護職を継ぐこととなります。
だがしかし、、
再び家督争いが勃発。
事の発端は
お家騒動で大騒動した
土岐政房がまた
お家騒動を起こしたそうで、、
1517年(永正14年)
彼は長男である頼武を差し置いて
弟の頼芸を溺愛し
頼芸を
美濃守護の後継ぎにしようとしたらしく
頼武派と頼芸派に分裂した
土岐家は再び争う事となります。
それから、この兄弟の戦いは勝ったり負けたり、、、
越前朝倉家を巻き込みながらも
13年も続くみたいです、、、、、
結局、1530年(享禄3年)
兄である頼武は敗れたのち
越前へと追いやられて
ようやく弟である
頼芸が美濃国の実権を握る事となります。
この長い年月の戦いのなかで
常に土岐頼芸のそばに控え、、
頼芸を守護大名たらしめるため
補佐したといわれる
出自の怪しい男、長井新左衛門尉。
寺の坊主をしていたか
油商人をしていたともいわれた男は
この家督争いにおいて活躍し大出世を遂げます。
その長井新左衛門尉の息子こそ
のちに斎藤道三と呼ばれる男、、、、。
彼もまた、頼芸から絶大な信頼を得ていたようで
頼芸の妾であった深芳野(みよしの)を
譲られ、(なんちゅう時代じゃ)
道三の側室となり
1527年(大永7年)に一人の男児が誕生しています。
長井家の惣領、長井長弘、、
もともと土岐氏重臣であり
長井新左衛門尉親子を取り立て
頼芸に引き合わせ
出世の道を開いてくれたという
恩人にも関わらず
道三は長弘を殺し
長井家を乗っ取ってしまいます。
だが再び、越前に追放された兄
土岐頼武の息子である
土岐頼純が越前、朝倉家と近江の六角家を
味方にし逆襲を開始。
美濃は再び戦火に包まれるとともに
長良川も氾濫し大洪水で大変だった時期、、、
そのどさくさに紛れ?のちの道三
長井新九郎規秀はそのころ
もはや権力を失っていたといわれる守護代
斎藤良利の跡を継いで
今度は斎藤新九郎利政と名乗り
(名前変えすぎてすごくややこしい、、、)
ついにあの稲葉山城に居を構え、稲葉山城を大改築し
難攻不落の城を築くこととなります。
そしてついに、、
1541年(天文10年)
斎藤利政は
土岐頼芸の弟を毒殺。
それを機に
主君であった頼芸と対立し始め、、
翌年には頼芸の居城であった
大桑城へ攻め込み
守護大名である頼芸を
美濃から追い出してしまいます。
一気に下剋上の階段を駆け上がり
美濃の戦国大名となった斎藤道三、、
美濃を平定してから、、
1554年(天文23年)
自分の跡目を側室、深芳野との子供である
斎藤義龍に譲り、、
道三は隠居をし
ここ、鷺山城において晩年を過ごしたそうです。
標高68m 鷺山の
山あいから見える岐阜城。
かつては稲葉山城と呼ばれていた城、、
権謀術数の限りを尽くし
美濃一国を乗っ取り
もはや還暦を過ぎ
斜陽の時期を迎えていくであろう
斎藤道三、、、
ここから見える
自分が造った城を
どんな気持ちで眺めていたんだろう、、、、。
全然どうでもいいですが
斎藤道三の娘で織田信長の奥様である
濃姫、、、
彼女、信長と結婚する前
頼芸の甥である土岐頼純と、、、、
実は一度結婚していたとかいないとか、、、
この記事へのコメントはありません。