1863年

近藤勇之像

京都壬生寺の境内にある

言わずもがな

新選組局長の胸像。

「幕末」

と呼ばれる江戸時代末期に

新選組は

幕府による警察部隊として

京都において反幕府、尊皇派のサムライたちを

震え上がらせたといいます。

修学旅行かな、、、?

ええなあ、、

懐かしい、、

 

彼は1834年(天保5年)に

武蔵野国多摩郡で百姓の三男坊として生まれ

15歳で天然理心流、試衛館の門を叩き

剣術の腕を磨きます。

翌年には天然理心流三代目宗家

近藤周助の養子となり

のちに四代目として襲名。

相当な努力もあったと思いますがこの身分の厳しい時代に

彼は百姓から武士へ、、、

1862年(文久2年)

思想の違いから始まり

薩摩藩尊王派を粛清しようと薩摩藩士同士が

斬り合う凄惨な事件から

京都は混乱しはじめ

勤王の志士たちと呼ばれる侍たちが京都で大暴走。

佐幕派と呼ばれる幕府に味方するものは容赦なく斬り殺され

特に安政の大獄に関わった

幕府役人たちへの恨みは凄まじかったそうです。

さらに食うに困った浪人たちがどんどん京都に集まり

市民に対し乱暴狼藉を働くような無法地帯になり

そんななかで、、

徳川14代征夷大将軍徳川家茂が

朝廷の命により上洛する事となります。

そして、、現れるは庄内藩出身の藩士

清河八郎。

彼は仲間であった幕臣、山岡鉄舟を通じて

江戸にいる浪人を集め浪士組を結成し

京都の治安維持部隊として京都に送り込むことを

幕府に提案します。

そして、将軍家茂護衛を目的に

江戸では腕に覚えのあるものなら誰でも参加できると

浪士組が作られたはいいですが予想以上に人が集まります。

その数200名以上、、

そのなかに天然理心流四代目の

近藤勇もいます、、

そして1863年(文久3年)2月

小石川伝通院から浪士組は江戸を出発。

試衛館で同じ釜の飯を食い、一緒に京へ近藤勇についていくと

薬売りの行商をしていたが多分この機会を利用してきっと、、近藤勇という男をどう世間に知らしめていくか考えていたであろう

土方歳三

 

9歳から天然理心流の道場に入り、試衛館塾頭として若き天才剣士として有名すぎるくらい有名な

沖田総司

 

天然理心流、近藤周助に入門し近藤勇の兄弟子として一緒に稽古をしながら新選組でも朴訥にメンバーを支えていく

井上源三郎

 

若き日に東北から江戸へ、、北辰一刀流を極めるも田舎道場の主である近藤の人柄に惚れ、彼を慕ったという

山南敬助

 

二番隊組長となる男は剣術が好きで好きで脱藩し修行の旅に、、江戸に戻り天然理心流の食客となり、彼らと一緒に西へ

永倉新八

 

藤堂家の殿様の落とし胤と噂され、北辰一刀流の伊東甲子太郎の道場で修行しながらものちに新選組最年少幹部となっていく

藤堂平助

 

生まれは伊予松山。槍は宝蔵院流の免許皆伝。腹に切腹の跡が残り死損ねといわれ、のちに新選組の殿軍を務める

原田左之助

 

浪士組には参加していないが、のちに三番隊組長として壬生浪士組に入り新選組のために陰に陽に剣を振るったといわれる

斎藤一

 

浪士組は中山道から京都へ到着。

だが、ここから清河八郎の本当の狙いが

遂にあらわれてきます、、、

彼は浪士組の浪士に対し

「幕府の命令において、この京都に来たが

このメンバーで攘夷を決行しよう!」

と言い出します。

 

清河八郎の本当の狙いは、京都にいる過激浪人たちを

取り締まることではなく

京都にいる勤王の志士たちも含め

幕府から切り離す組織にしてしまうことで

天皇の配下として兵をつくり

尊王活動に利用しようとしたそうです。

しかし浪士組を取り締まる人たちも

清河八郎の策略に仰天し

慌てて江戸に帰ろうと言い出します。

 

だがしかし、、

当初の目的である将軍警護の役目を全うする!

江戸へは帰らない!と

、、、先も見えぬまま

京都で当初の目的を果たすと

水戸派と呼ばれた芹沢鴨の一派と

近藤勇率いる試衛館一派、、

あと他何人かのメンバー、、

全部で24人が江戸へ戻ることなく

京へ残り

京都守護職である会津藩預かりとなります。

ここから彼らがわずか5年の活動だったといわれた新選組は

少しづつ歴史の表舞台へと登っていきます。

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