1184年

名馬 磨墨之像

なんとも凛々しい馬上の武者像。

だが、この銅像の主人公は

名馬と呼ばれる磨墨(するすみ)

明宝ハムで有名な

岐阜県郡上市で誕生したそうです。

平氏打倒の命に発し

信州で悶々としていた源頼朝のいとこ

源義仲が挙兵して北陸を中心に

どんどん仲間を増やし勢力を拡大していきます。

 

平家のゴッドファーザー平清盛も亡くなり

日照り台風洪水伝染病と庶民の暮らしも大変な時に

義仲は倶利伽羅峠の戦いで平氏軍を退け

京に入りこれまで京を牛耳っていた

 

平氏を追い出してしまいます。

しかしただでさえ飢饉で皆が飢えているなか

義仲の統制が効かず

 

入京した兵士達は略奪暴行を繰り返して

よけいに京は治安が悪化。

 

道端に子供が捨てられ

死体がそのへんに転がり

しまいにはその死体を食べている人もいると

かなり凄惨な状況だったそうです。

 

また義仲も皇位継承問題に口を出したりと

ときの朝廷の権力者、後白河法皇に呆れられ信頼を失い、、

これはやばいと空気を読んだ義仲は

名誉回復のため、西国への平家の追討へ向かいます。

 

その間に

 

水面下で後白河法皇は義仲のいとこであり

関東十ヶ国の王である源頼朝に相談し

ついに手を組みます。

 

ここで頼朝はこれまで罪人!?

 

だったらしい、、として扱われた名誉を戻し

東国における支配権を掌握する事で

ここから武士の時代が始まっていきます。

 

、、ちょっと

前置きが長くなってしまいましたが

馬上の武者は

石橋山の戦いで若き日の源頼朝の命を救ったり

そのあとは平氏追討の遠征の中で

かの英雄、源義経と

ケンカばっかりしていたというエピソードがあると言われる

梶原景時の

息子である

梶原景季。

 

景季は源義仲追討のため

頼朝の命を受けた弟範頼と

義経に父景時と付き従います。

 

宇治川の合戦と呼ばれるいくさのなかで

範頼、義経軍と義仲軍は宇治川を挟み対陣。

 

そこで宇治川の先陣争いと呼ばれる

佐々木高綱が乗る池月

梶原景季が乗る磨墨

 

一番乗りの功名を立てるため

川に乗り入れ

対岸上陸へのレースが始まったそうです。

、、このいくさで一瞬の栄華を誇った源義仲は戦死。

そういえば、義仲の有名な奥様??

 

誰もが聞いたことある巴御前

 

また今度ゆっくり調べてみます、、、、

 

 

天気も良く、ここ磨墨の里に

たまたま立ち寄った時

名馬、磨墨と梶原景季は

数多くのバイクに囲まれ

なんとも異様な光景で笑ってしまいました。

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