関ヶ原合戦場から少し離れた
大谷吉継の陣のほど近く、、
この山中という小さな村に
源義経の母親である
常盤御前のお墓があります。
彼女は身分は低いながらも
絶世の美女と言われ
源義朝の妻となり
今若、乙若、牛若の
3人の男児を産みましたが
平清盛との戦いに敗れた
平治の乱ののちに
義朝は殺されます。
彼女は京都にいる母が
捕らえられたという噂を聞き
子供達を連れて都へ、、、
平清盛に母と子供達の助命嘆願をし
かわりにその身を
平清盛に捧げることとなり
、、、女の子を産んだとか産まないとか、、、
やがて
一条長成という貴族のもとに嫁ぎ
子供を2人産んだといいます。
時代のうねりに巻き込まれた
彼女は
どんな思いで毎日を過ごしていたのかは
分かりませんけれども
きっと
世間の噂は彼女の耳にも
入ってくることでしょう。
で
なぜ岐阜の田舎に常盤御前の墓が
あるのかは知りませんが
鹿児島とか群馬、埼玉、京都とか
日本中にあるようです、、、
源義朝との子であり
鞍馬山に預けていた牛若が成長し
源義経として
西へ向かう際に
ここ山中村を通り過ぎるころ
常盤御前はもう
この世にはいなかったという伝説が残る
お墓の近くにあったこの常盤地蔵。
看板には
「常盤は義経がそのうち
この道を通り都へ行くはずだから
ぜひ道ばたから彼を見守ってやりたいと
言い残し息を引き取った。
村人に手厚く葬られ
この地蔵を安置し供養した。
1183年(寿永2年)
上洛のため義経は軍を率いて
この地にある若宮八幡神社で
西海合戦勝利を祈願し
母の塚、地蔵前でひざまずき
母の冥福を祈った」
と書いてあります。
一方、近くのお墓の脇の看板には
西ではなく
東へと向かう義経を
乳母とともに追いかけて
土賊に襲われたと書いてあります。
まあ、、、
なんだかよく分からない部分も
多いですけれど、、
もうひとつ。
この地には興味深いエピソードが残る、、
、、、時代を超えて
400年以上も後に
この山中村にある
常盤御前の墓にまつわる
物語が伝わっています。
1575年(天正3年)
長篠の合戦が終わった頃、、、
織田信長は
岐阜と京都を行き来しており
ここを通るときにいつも
ある者をみかけたといいます、、、
この中山道にある
山中村の道ばたにおいて
身体に障害がある者が
雨露にうたれて
乞食をしていたそうです。
信長はたいそう哀れに思い
「大抵乞食は住むところを定めず
さすらうものだが
なぜこの乞食はいつもここにいるのか」
と村人に聞きます。
すると村人は答えます、、
「むかしこの山中の地で
常盤御前を殺した者の
子孫でありその報いで代々に渡り
身体に障害を持って生まれ
ここで乞食をしています。
世間では
山中の猿と呼ばれています。」
それを聞いた信長は
次に、、京に上がる際に
この山中村で馬を止め
「皆に言いつける事がある、、、、」
と村人全員を集めたそうです。
あの、、織田信長から呼ばれ
何を言われるんだろうかと
きっと村人たちは衝撃を受け
恐れ慄いたでしょうね。
、、、恐る恐る出頭する村人たち。
信長は
山中の猿のためにと
木綿二十反(だいたい1㎞?くらいでしょうか!?)
を村人に預け
「この木綿の半分を費用にして近所に
山中の猿が住めるよう小屋を作り
面倒を見てやりなさい。
また、近隣の者たちは麦や米を収穫時に
負担にならない程度に
山中の猿に与えてあげてほしい。」
と言ったそうです。
それを聞いた山中の猿や村人たちは
きっと歓喜の嵐。
なんとなく想像つきますね、、
その瞬間を見てみたかったな、、、
でも
おっかないイメージのある信長も
優しい一面があるのが
なんというか、、、、
ところで
この山中の猿の子孫は
いまも、、、
この町のどこかにいるんでしょうか、、、?
気になりますね、、、、
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