1559年

郡上八幡城

郡上踊りで有名な

郡上八幡に

遠藤盛数という武将が建てたといわれるお城があります。

もともとこの辺一帯を支配していた

東氏の一族として

兄である遠藤胤緑(たねより)と一緒に

宗家当主である東常慶のもとに仕えていましたが

胤緑の孫である和田五郎左衛門が

野心を持っていると

東常慶が恐れれば

祖父である胤緑と弟、盛数は五郎左衛門を暗殺。

 

越前の朝倉義景が郡上に侵攻してこれば

彼らはそれを撃退し

 

これもまた東氏一族の

河合七郎という武将が不穏な野望を持てば

彼らは叩き潰し

 

遠藤兄弟はそれなりに(腹のうちはしりませんが)

東常慶とうまいことやっていたようですが、、

 

一気に歯車が狂い出すのは、、

東常慶の息子、常堯(つねたか)

、、しかし調べないと読めない名前ばっかり、、、

それはともかく

常堯は悪逆非道な男だったそうで

父常慶は遠藤盛数を婿養子として東家の後継ぎとし

盛数の兄、遠藤胤緑の娘と常堯の

結婚話も

とてもじゃないが、、と

胤緑は断ったそうです。

(常堯ってどんなひとだったんだろう、、、きになる)

それを恨んだ常堯、、

彼は縁談を断った胤緑を恨み

1559年(永禄2年)

居城である赤谷山城(東殿山城)に呼び寄せ

鉄砲で胤緑を撃ち殺してしまいます。

、、ここで

兄を殺された遠藤盛数は兄の恨みを果たすべく

近隣の豪族に呼びかけ挙兵。

その時に敵の城である赤谷山城の対岸

吉田川を挟み

牛首山と呼ばれる

この地に砦を築いたのが

ここ、郡上八幡城だそうです。

東軍は10日間、赤谷山で防戦しますが

結局赤谷山城は炎上。

常慶は戦死し東氏は滅亡の道を辿ります。

そして悪逆非道の息子

東常堯は、郡上を逃れ抵抗を続け

飛騨の内ヶ島氏を頼りに

幻の城と呼ばれる

帰雲城で

、、、、、、、

天正13年11月29日の大地震により

城の崩落とともに

最期を迎えたそうです。

そして東家を潰した遠藤盛数は

兄の息子である胤俊とともに

郡上を支配し美濃斎藤家に仕え

織田信長が侵攻した森部の戦いでも防戦。

八幡城城主となった彼にも寿命が訪れ

僅か13歳の息子を残しこの世を去ります。

息子の名は遠藤慶隆。

彼こそドラマの主人公にもなっていいほど

ななんともややこしく織田、豊臣、徳川の時代に翻弄され

波乱に満ちた人生を送るとは

父、盛数が死んだとき

一体誰が予想していたんだろう、、、




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