かつて愛知県と
岐阜県の県境にあった
今はもう、、
川の中に埋もれたといわれる城跡。
日本のどこかしらかに
同じ名前の城があったようですが、、、
織田信長が稲葉山城を攻略する為に
木下藤吉郎が
墨俣城を築城するとき
川から木材を流し
ここ松倉城で陸揚げし
木材を組み立ててから墨俣に送ったという
重要な拠点だった城だといいます。
川並衆と呼ばれた
このあたりの
尾張、美濃境の土豪たち。
蜂須賀小六が有名ですが
その川並衆のひとり
坪内利定。
、、鉄砲の名手だったそうで
彼もまた織田信長に仕え
稲葉城を攻略したのちには秀吉の配下となります。
、、、しかしなんか
なんとなく、、、
もともとウマの合わないような
秀吉と利定、、
いろいろ誤解とか事情もあったんでしょうが
本能寺の変で
信長の死後ふたりは不仲になって、、
小牧長久手の戦いのあと
利定は
秀吉の配下を離れ浪人に、、、、
しかし、、、彼は
1590年(天正18年)に
今度は徳川家康に召し出され
関東の
上総、武蔵の地で
3400石の所領を与えられたという。
家康もよほど利定を
買っていたんでしょうか?
秀吉が天下人となっていたときには
家康に匿われた時期だったらしく
秀吉がふと、利定はどこに行ったんだろうと
家康に話をしたらしいけれども
家康はしらを切り
どこにいるか知りません、と答えたそうです。
その後、利定は関ヶ原の戦いでも
鉄砲隊を率いて活躍し
その功績により戦後
関東の地からこの松倉城へ戻ります。
坪内利定は松倉城から
木曽川を渡り北に位置する
新加納陣屋に拠点を移し
6500石の大旗本として
明治の時代まで坪内家は続いていく、、、、
、、前に紹介した
若き日の前田利家による拾阿弥惨殺事件、、
信長からクビを言い渡され
途方にくれた利家を
利定はこの城で匿っていたらしい、、
そして坪内利定の兄
前野将右衛門。
彼もまた弟、利定とともに秀吉に仕え
小牧長久手の戦いや賤ヶ岳の戦いとか
小田原征伐とか数多くの戦に参戦し武功を上げ
どんどん出世していきながら、、、
弟とは対照的に不運な最後を遂げるようです、、。
このとき弟の利定は
遥か関東の地におり
兄の死を聞いたときは、、、
はたして
どんな気持ちで受け止めたんだろう。
、、そして前野家といえば
昭和34年の伊勢湾台風のあとに
愛知県江南市にある旧家の蔵から
「武功夜話」
と呼ばれる文書が発見されたようで、、
まさか何百年もむかしの書物が現代に蘇るとは
このときの世間の衝撃とかって
果たしてどんなんだったんだろうか、、
、、でもいまネットでチラと見たら凄いな、、、
真偽のほどはともかく
その時代その時代の
口伝てとか文書とかでいろいろ想像したり調べたりするのは
大変な作業で、、、、、
最近も柴田勝家の文書が
発見されたとかニュースでやってましたね。
小牧城の織田信長居館跡が発見されたり、、、
またこれからも、、歴史の定説を覆すような衝撃的な資料とかも
どこかの、、、、
どこかの古い蔵の奥で
眠っているんでしょうか、、、
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