1754年

舛屋伊兵衛の墓

「薩摩義士」


遥か鹿児島から

木曽三川にやってきて

多くの犠牲者を出したと言われる

治水工事において

 

大榑川の「せき」を作るため

治水史上最大の難事業と呼ばれた洗堰工事。

 

長良川の支流、大榑川の合流付近において

川床の高さの違いから

大雨が降ると長良川から大榑川に流れ

堤防を壊し、多大な被害を与えたそうです。

 

その二つの川の間に洗堰を作り

長良川の水位がやばくなった時に

大榑川に流し出せるようにし

 

水の勢いを減らすことができるそうです。

 

だがしかし、、

工事は何度も失敗、、、、

 

そのとき

舛屋伊兵衛という男

これは水神の怒りだと言い

 

その怒りを鎮めるため

 

荒れた川に飛び込みます。

「濁流の人柱」と呼ばれた彼は

もともと

岐阜の養老の生まれでしたが

 

江戸の奉行の下人として使えるも

今回の工事の監督にあたることとなった

領主についていき

岐阜に舞い戻ります。

 

そして今回の難工事を

目の当たりにしたようです。

 

なんとも何を考えていたのか分かりませんが、、、

 

そして

 

この死は無駄にならず

無事大榑川洗堰工事は完了。

 

円楽寺と呼ばれる

 

この寺の片隅にひっそりと

古くて墓石はボロボロでしたが

今も大事にされているようです。

慰わりを感じるお墓がありました。

 

今も、、彼を偲ぶ顕彰祭が地元で

定期的に行われているようです。

 

しかし、この治水工事を命じられた

薩摩藩の藩主、島津重年、、、

幕府からはやれと命じられ

莫大な費用と多くの死者を出し

なんとか治水工事は完成させますが

最初っから最後まで悩みに悩み

心労で27歳で亡くなられたそうです。

 

殿様も楽じゃないな、、、、

 

、、、あんまりストレス溜めないようにしよ。

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