源平合戦。
後白河法皇の息子であった
以仁王は
天皇になれなかったことで
隆盛を誇っていた
平氏打倒を挙げ
日本各地に散らばっている
衰退していた源氏に令旨を出したそうです。
源義朝の弟の
源行家。
彼はその令旨を諸国に伝え歩きつつ
三河や尾張を中心に平氏打倒の旗を揚げ
養和元年(1181年)
墨俣で平氏と決戦。
墨俣といえば
また、、、関係ないですが
あの有名な
何百年ものち
かの藤吉郎秀吉も、、、
墨俣で城を造っている最中とか
ここの供養塔に立ち寄ったんでしょうか?
しかし多分
それどころじゃなかったでしょうね、、、
はたして
そもそもこの供養塔があったのかどうか、、、、
源義円。
彼はもともと
僧侶だったそうですが
その源行家が挙兵した時に
義円も援軍として参戦。
のちに墨俣川の戦いと呼ばれ
源氏は約5000〜6000人
平氏は30000人という
圧倒的な兵力の差、、、
行家軍は夜襲を企てたというが
失敗、、、、
、、しかし義円は
若さや功名心
それまでお寺の中でずっと
悶々としていた気持ちが
爆発したんでしょうか、、、
何を考えていたかは分かりませんが
この戦の中で
単騎、敵陣に乗り込み
享年27歳。
供養塔の周りは
彼の名前を冠した小さな公園です。
、、、彼は
もともと円成という名でしたが
今回の源氏決起の話を聞き
父親の名を一字譲り受け
義円と名乗りこの戦いに参加したといいます。
父の名は、
源義朝
義円は
、、、こどもの頃
乙若と呼ばれていました。
そのころ鎌倉にいる
源頼朝は
父同じくも腹違いの兄。
母親の名は常盤御前。
そして義円には同じ血の流れる
弟がいました。
のちに
軍事の天才と賞賛された若者。
名を牛若丸といいます。
次回へ続く、、(予定)
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