1868年

凌霜隊の碑

岐阜県郡上市にある

郡上八幡城のあたりには

以前紹介した

赤髭作兵衛の力石があり

お城の改修をした際に人柱となったという

およしという女性を祀っていたりします、、、

 

また、、、

 

お城の駐車場は

なんとも、、夜ひとりでは

あまり行きたくないような

いわくつきの井戸の跡がある、、。

 

、、そしてひっそりと建つこの石碑

「凌霜隊之碑」

まもなく明治維新を迎える頃に、、

凌霜隊(りょうそうたい)

と呼ばれるこの郡上藩から

 

あの戊辰戦争において

新政府軍を相手に

はるか会津若松の地

鶴ヶ城で

激戦を繰り広げたという、、、。

郡上藩青山家は4万8千石ながら

徳川譜代の大名、、、

だが

世の中が

ひっくりかえりそうな時代

大政奉還から戊辰戦争

鳥羽伏見の戦いでの

敗北を迎えながら

青山藩の反論は二つに分かれ

果たして新政府軍につくべきなのか

それとも、、、

 

幕府軍がもし再び

息を吹きかえす可能性も

無くは無い、、、、

どちらにつくか青山藩は

頭を痛め、、、

 

結局

藩の方針は

表向きは新政府軍につきながら

幕府軍にも

こっそりと味方部隊を派遣。

 

、、これでどちらが勝っても言い訳が出来る、、、

 

この密命を江戸、郡上藩屋敷で

受け取った家老、朝比奈藤兵衛。

その息子である

若干17歳

朝比奈茂吉を隊長とし

 

このどちらにもつくような

都合のいい策を巡らした藩の秘策を

はたして

彼らは知っていたかどうか、、、、、?

 

だがこれまでの幕府の恩義を受けたことは

忘れることはできないと

武士の忠義を貫くべく

45人の凌霜隊のメンバーは

藩公認?のもと

それぞれ脱藩し

その戦禍に自ら投じていく。

 

新政府軍が

江戸まで乗り込んできて

100万人の市民を戦いに

巻き込むわけにはいかないと

勝海舟とか西郷隆盛とかが話し合う

有名な

江戸城無血開城。

 

この時期に

凌霜隊は江戸を出発。

徐々に北へと進軍してくる

新政府軍を防ぐべく転戦するが

 

宇都宮城での戦いでの敗戦、、、

このあたりでひょっとして?

凌霜隊の人たちは、、

かつて京都において鬼の副長として名を馳せ

 

洋装でオールバックの髪をなびかせて

最前線で指揮をとる

男性の姿を見たかもしれません、、、

 

そのあと、、、

会津若松において

新政府軍に鶴ヶ城が包囲されている

激戦の最中、、、

城内に潜り込み

彼らは

白虎隊とともに

鶴ヶ城を陥すわけにはいかないと

城の防衛にあたったという。

このあたりでひょっとして?

凌霜隊の人たちは、、

髪を切り男装したうえ

スペンサー銃や刀を駆使し

ともに戦った綾瀬はるかに似た??

女性の姿を見たかもしれません、、、

しかし、同盟諸藩の降伏が相次ぐなかで

孤立した会津藩は新政府軍に降伏し

ついに鶴ヶ城開城。

 

凌霜隊もそのまま

捕らえられ、、、、

、、、霜をしのいでも戦うと

覚悟を決めたサムライたちはそのあと

故郷である

郡上藩に戻されて

すぐさま牢獄に放り込まれたという。

藩や幕府のために戦い

生き残った35名は

 

罪人の扱いを受け

家族に会えることもなく

その牢獄のなか

かなり過酷な状況で過ごしたという。

 

、、半年後

周辺のお寺の住職たちの

嘆願により

ようやく牢獄から出されて

自宅謹慎、、、

 

そのあいだには

郡上藩では凌霜隊を処刑してしまおうという

噂もあったといいます、、、

 

そして、、、

1870年(明治3年)2月、、、

ようやく彼らは謹慎を解かれ

放免されます。

だが、、

 

辛いのはここから、、

 

彼らは罪人として扱われたことで

世間の目はかなり冷たく、、

とても郡上には住める状況ではなかったらしい。

 

、、、、

ひとり、、、

またひとりと

この地をあとにしたといいます。

、、、、、

藩と幕府を守るために戦ったにも関わらず

郡上を追い出されるようなかたちで

彼らは去っていく、、、

時代の波には逆らえぬまま

後世に伝えることもはばかり

永久に口を閉ざす、、、

はたして、、、

 

彼らは故郷である

この地にどんな気持ちを

抱いていたんでしょうか。

 

そして、、きっとどこかの土地で

寿命を迎えた彼らの

子孫は今もきっとどこかにいるはず、、、、、

、、、

凌霜隊は会津に入るまえ、、

あの温泉で有名な

栃木県塩原において

3ヶ月程逗留していたという。

 

そこを引き払うとき

会津藩の命令により

塩原周辺の家とか寺社など全てを

全て燃やすよう指示を受け

焼き払ったといいます。

 

だが、、

妙雲寺というお寺を

なんとか

ごまかして

燃やすのをやめたという、、、、

 

その妙雲寺。

このお寺を燃やそうとする前に

ふと

お寺の天井を見ると

88の菊の御紋がある、、、、

 

少しでも朝廷には不敬ではなるまいかと

彼らは燃やす前に

その88の菊の御紋に墨でバッテンをつけて

消してから燃やそうと考えたらしい、、、

 

そして、、、今現在も

その妙雲寺の天井には

凌霜隊が描いたという

墨のバッテンが残っているといいます、、、

 

なかなか

栃木県まではいけませんが、、、、

、、まだいまもあるのかどうか

いつかいけるのなら

見に行ってみたいけれども、、

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