1877年

西郷従道邸

明治時代に西郷従道の邸として

現在は明治村に移築されている

洋館です。

玄関の奥に誰か立っています、、

海軍大将、西郷従道がお出迎え、、

通称 信吾と呼ばれた彼は

15歳も年上(!?)

である西郷隆盛の弟として

兄の背中を少年の頃から

間近でどう見ていたんでしょうか。

 

若き頃に父母を亡くし兄、隆盛に育てられながら

兄や大久保利通らが結成した精忠組に身を投じ

寺田屋事件の過激派に参加したり

イギリスの艦隊が薩摩に攻め入った

薩英戦争の時にはスイカ売り決死隊?を結成し

イギリス船への奇襲を試みたり

戊辰戦争に参加し

鉄砲に撃たれたりとなかなかのツワモノで

幕末を生き残った西郷従道は明治政府では軍人として活躍します。

明治2年にはヨーロッパで軍隊について山県有朋とともに学び

のちに海軍大臣として

山本権兵衛を見出し

日清、日露戦争の勝利へと導きます。

また、彼は大臣というポストを持ちながら

全て部下に仕事を任せ、一切口を出さず

最後に何かあれば責任は自分が取るという度胸もあり

懐の深い性格だったそうで

山本権兵衛ら部下たちの才能や手腕が

十分に発揮できたそうです。

この洋館は

明治10年代のはじめに

東京上目黒の自邸内に建てたもので

彼は明治になり度々海外に視察に出かけ

 

国内では

陸・海軍、農商務、内務等の大臣を歴任、維新政府の

中枢にいたことで在日外交官との接触も多く

「西郷山」と呼ばれる程の広い敷地内に

本格的な洋館を接客の場として設けたそうです。

1873年(明治6年)に

兄、隆盛が征韓論を巡り

 

大久保利通や岩倉具視らと激論を交わし

敗れ、官職をやめて東京から鹿児島に戻る時には

多くの薩摩出身者が

隆盛についていくなか

 

従道は兄に諭され

政府に残りましたが

 

4年後の1877年(明治10年)に

西南戦争が勃発した時も

従道は東京に残り

 

山県有朋が政府軍を率い

鹿児島へ出征したそうです。

 

 

西郷家は

長男 吉之助(隆盛)

長女 琴

次男 吉二郎

次女 鷹

三女 安

三男 信吾(従道)

四男 小兵衛

と七人兄弟のうち

男兄弟が4人いますが

 

その男兄弟のうち

枕の上で亡くなったのは

従道だけ、、、。

 

、、日本の夜明けを迎える直前

戊辰戦争における新政府軍と長岡藩との

激戦、北越戦争において次男の吉二郎は戦死し

従道の弟で四男である小兵衛は

長兄の隆盛に最後までついていき、西南戦争において

熊本高瀬において戦死。

 

そして

覚悟はしていたかもしれないですが、、

 

幕末の革命の先駆者として

陸軍大臣であった兄が

 

西南戦争と呼ばれる

かつての部下たち?の暴発に

身を捧げたともいわれる兄が

 

追い詰められていき

 

その最後の地

鹿児島、、、

城山にいる兄隆盛の死を聞いた従道は

どんな気持ちだったんだろう。

 

あるとき

従道は、、夜ふけとか、時々ひとりで

この2階のテラスに立ったりして

、、、

 

貧しいながらも賑やかに楽しく

兄弟一つ屋根の下で

暮らした加治屋町の頃に

 

思いを馳せることも

あったかもしれません。

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