1600年

床几場

今年の冬

たぶんいちばん寒い時期に

関ヶ原に行ったとき

雪が降っていました。

笹尾山のふもと

石田三成の家臣島左近の

陣のあたり、、、

白く染まっています。

積雪の関ヶ原の戦いの跡

(しかし毎年、雪の降る日も少なくなっていきますね、、)

その天下分け目の合戦において

最後を締めくくる

 

前代未聞の

おそらくこれまで

どこの世界の戦争においても

ない

 

敵中突破の

退却戦を敢行したのは

 

西軍、薩摩の総大将

島津義弘。

この床几場において

石田三成を逃走させ

東軍の勝利を

確信した徳川家康。

 

だがそのあと

家康の眼に飛び込んできた

主君義弘のみを

守るべく退却戦を仕掛け

勝利した何万人もの

東軍に突っ込んでくるのは

 

1600人の島津兵たち。

この床几場の台座?は

江戸時代、、

代々このあたりを治めていた

あの竹中半兵衛の子孫が造ったらしい。

 

それはともかく、いくさが終わり

西軍を破った徳川家康は

この場所で部下たちが討ち取った

西軍の敵将たちの

首を並べて

検分した場所だといいます。

そしてこの家康最後の陣地のそばにあるのは

関ヶ原古戦場記念館、、

 

むかし行った時

だいぶ古かった覚えがありますが

 

現在リニューアル工事中で

7月には開館するらしく

楽しみにしていたけれど

、、どうも延期みたいです、、。

 

こればっかりは仕方ありません。

1600年(慶長5年)

9月15日

運命の開戦前夜、、

 

未明から早朝にかけ

このあたりは

深い霧が満ちていたという。

 

東軍の本陣

桃配山に陣を張った

徳川家康は自ら

この山で指揮をとることとなり

 

 

関ヶ原を挟み、北西にある

笹尾山に布陣したのは

石田三成。

 

東南の中山道から西に向かう

東軍を迎え撃つべく

笹尾山の麓では

IMG_1763

島左近、蒲生郷舎とともに

6000人近い兵で陣を張る、、

 

そこから

広大な関ヶ原を囲むようなかたちで

南に連なり

西軍の諸将たちが居並ぶ。

 

島津義弘率いる薩摩兵1600人、、

小西行長隊6000人、、

戦意盛んで天満山において

西軍で最も多い17000人の

兵を率いる宇喜多秀家隊。

少数ながら

大谷吉継や戸田重政

平塚為広たち。

 

彼らの隊の南には

松尾山が見える、、

小早川秀秋16000人の兵たちが

あの山の頂から関ヶ原を望む。

 

その関ヶ原の東、伊勢街道を挟み

桃配山の本陣においては東軍

徳川家康と30000人の兵たち。

 

桃配山から連なる東の山

南宮山に

布陣していたのは

 

安国寺恵瓊らに奉じられて

西軍の総大将となった

毛利輝元。

その時大阪城にいた

総大将の養子である

 

毛利秀元率いる16000人の兵たちと

参謀、吉川広家。

 

その後方で、土佐の長宗我部盛親6000人

安国寺恵瓊や長束正家らが陣を構えているが

彼らに睨みを利かせているのは

東軍の浅野幸長や池田輝政たち。

そして東軍の主力部隊

福島正則や黒田長政らは

霧の晴れるのを待ち、、

 

関ヶ原の前線において

開戦の合図を

いまかいまかと待っている、、、

 

霧が晴れつつあるころ

家康の四男 松平忠吉と

その舅であった

徳川四天王のひとり 井伊直政。

 

どうも家康は

表向きは

東軍の豊臣恩顧であり

三成憎しの思いから

東軍として味方となっている

福島正則を立てざるをえず

 

開戦の合図を託す

正則を先鋒として命じる。

 

しかし

この天下分け目のいくさ、、

 

家康は徳川軍が

先鋒の栄誉を務めるべきであると

徳川四天王のひとり

家臣、井伊直政に

こっそりと密命を出したらしい。

 

その直政は

若き松平忠吉を連れ

東軍の先鋒部隊であった

福島正則隊を出し抜き

 

鉄砲を西軍、宇喜多秀家の隊に

放ったことで

その合戦の火蓋が切って落とされる。

東軍は関ヶ原の地において

山々に連なる西軍に包囲されている状況であったといい

 

この西軍

全ての部隊が三成の思惑通りに

機能すれば、、西軍の勝利は

確実であったといわれます。

 

、、しかし徳川家康は

この大開戦が始まる前、、

数多くの調略をこなして

戦いのさなか、、次々と

西軍の中から多くの裏切り者や傍観者を

出していく、、

 

しかし、、西軍に囲まれたような

桃配山を本陣においたけれども

 

鉄砲の硝煙にまみれた

関ヶ原の激戦は桃配山からも

見づらかったみたいで、

また戦況においても

奮戦する西軍と

押され気味の東軍、、、

 

家康は西軍の諸将たちを

調略したはいいが、、

所詮、人の気持ちなどあてには出来ない。

 

特に本陣である桃配山の

後方にある南宮山にいる毛利秀元が

心変わりをして約束を破り

長宗我部とともに攻めてきたら、、、

 

そんな不安や焦りのなか家康は、、

最初の陣地であった桃配山を降り

前線に近い、この床几場と呼ばれる場所に移動し

、、、

ついに松尾山で日和見、、、傍観していた

小早川秀秋軍に対し

痺れを切らした家康は

 

松尾山頂上には届かぬ

鉄砲を撃ち込んだという、、、。

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