岐阜県山県市にある
「おおがじょう」と呼ばれるお城。
このお城は室町時代の頃から
かの足利尊氏の
信頼を得て
美濃、尾張、伊勢と三ヶ国の守護として
その栄華を誇ったという土岐氏。
しかしそののちにおいては
群雄割拠、下克上の戦国の時代にかけて
美濃守護大名
土岐氏終焉の地となったという、、。
その最後の大名こそ
土岐頼芸。
彼はもともと
家臣であった斎藤利政、、、
のちの斎藤道三により
この城は攻め落とされて
頼芸は美濃から追放される。
そしてこの大桑城こそ
斎藤道三の国盗り達成の
お城だといわれます。
こんな平坦な場所から二つの道に別れ
けんきゃくコースと
ゆったりコース、、、
ゆったりコースは距離も短いのでとおもい
車で山の中腹まで登り
登ったはいいけれども、、
普段の不摂生や
運動不足も重なって
かなり、、、、
きつかったです、、
心臓が破裂しそうなほど。
果たして
何がゆったりなのであろうかと
思いながら
ロープに掴まって登る箇所もあったりして
、、
しかし戻るわけにもいかず
なんとか突き進んでいく、、
ついに
お城のある頂上が見えてきた、、、
また
驚いたことに
ほかにもお客さんが
たくさんいました。
そして頂上において
なにより驚愕した光景
このお城、、、
とてつもないインパクトを放ち
違う意味で見るものを圧倒させます。
これはなんだと思えるほどコンパクト。
兄、土岐頼武との家督争いにおいて
幾度もいくさを
繰り広げた
弟、頼芸は
1525年(大永5年)に
家臣であった長井長弘と
斎藤道三の父であった
長井新左衛門尉の後押しにより
クーデターを敢行し
土岐家の守護大名を
継承したという。
だが1535年(天文4年)には
長良川洪水が起こり
それまで住んでいた館を引き払って
頼芸はこの大桑城を
本拠地とする、、。
その頃、その頼芸の
因縁の相手である
兄、頼武が亡くなり
これまで
何百年も続いている
守護土岐家による
最後の骨肉の争いは
このあたりで終わりを迎える。
しかし
その頼武の息子頼芸の甥
土岐頼純。
彼は越前の朝倉氏や近江六角家や
尾張の織田家をも
味方として
憎き叔父であった
頼芸と手を組む、、、
一つの理由は
新左衛門尉の息子である
斎藤利政(道三)の
不穏な動きがどうも
美濃の水面下でも活発化してきていたみたいで
、、、
その利政の野望を
打ち砕くべく戦いを挑んだ、、。
だけども頼純は
、、あの大河ドラマのごとく
毒殺されたか
それともいくさで死んでしまったのか
叔父である
頼芸とも和解をしていたなか
蝮の謀略かどうかは
知らないが
わずか23歳のころに
突然の死を迎えたという。
そして、それを危惧していた
土岐頼芸、、、
彼は鷹の絵を描くのが
非常に上手かったともいわれますが
そのあと蝮が頼芸の弟を
殺してしまい
一気に彼の国盗りの
計画は進んでいき
結果、、、、
頼芸は
道三の謀略により
この美濃の地を追放され
一度はこの地で
再起を図ったらしいけど
、、結局
土岐頼芸、、、
再び故郷
美濃を追い出されてからは
流浪の人生を
密やかに辿っていくという。
そして、いつしか
逃亡の時代を過ぎながら
病により失明したという
頼芸。
織田信長の時代が
ひろがっていくあたり、、
武田家との戦いの最中
ひっそりと
甲州において身柄を庇護されていたと
いわれたのは
年老いた
最後の美濃守護大名
頼芸。
かつての栄華を誇る
美濃守護土岐家は、、
もはや、むかしのはなし。
そして
かの頼芸をそそのかし
その運命を変貌させた蝮
斎藤道三すら過去の人と
なっている時代に、、、
年老いて目も見えない土岐頼芸は
美濃国に戻り
それまで、、
望郷の思いはあったかどうか
知らんけれど、、、
1582年(天正10年)
故郷、美濃の地において
81年の生涯を
終えたといわれます。
、、しかし彼の名前
よりげいなのかよりよしなのか
よりのりなのかいまだちょっと
ほんとうの呼び方はわかりません、、。
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