1584年

田辺城 紀伊 

勇猛果敢で義理堅く

犬と呼ばれるほどの

忠誠心を持ち

名も功も求めない彼らは

主君への忠義のみ。

 

この三河衆と呼ばれた集団のなかに、、、

安藤直次という男がいます。

 

彼は生まれた頃から

生粋の三河武士として

徳川家康に仕え

長久手の戦いに至る直前、、

羽柴秀吉軍は徳川家康が

尾張にいる隙をつき

家康の本拠地

三河岡崎城を攻略にかかったが

その動きは徳川軍に読まれており

 

羽柴軍は

第一軍 池田勝入軍、6000人

第二軍 森長可軍、3000人

第三軍 堀秀政軍3000人と

そこに敗走してきた

第四軍 羽柴長吉軍の敗残兵たちとで

分断されてしまう。

 

しかし桧ヶ根という地で待ち伏せし

攻め寄せてきた

徳川軍を返り討ちにしたという

堀秀政。

 

その混合軍に使者を送ったという

池田勝入は秀政に

ともに合流し徳川軍を

挟み撃ちにして

戦おうと誘ったが

 

総大将である羽柴長吉は

もはやこの戦線から

逃げ出しており

徳川軍の奇襲により

その羽柴軍が真っ二つにされ

 

名人、堀秀政は、、、

これ以上の戦いは

無益であろうと

その要請を無視するという

冷徹な判断をくだす。

 

孤軍となった池田、森軍。

そして待ち構えるは徳川、織田連合軍。

ついにこの場所で激突します。

 

兵力は合流した

池田、森軍の方がまさっていたというが

徳川軍の勢いに

押しまくられたという。

 

その混戦模様のなか

徳川兵の放つ

一発の銃弾に

頭を撃ち抜かれたのは

第二軍の大将

鬼武蔵。

そのあと、、、

もはや負傷し戦いに疲れ果て

 

ただひとり、、その戦場において

その床几に座っていたといわれる

池田勝入。

もう味方は皆討ち取られたか逃げたか

周りに誰もいない状況であったらしい。

 

その大将、勝入は敵が近づいてきても

刀すら

抜かなかったといわれます、、

 

この戦いにおいて

どうも、、、

家康がとてもとても可愛がって

大のお気にいりであったという

はたちをを少し越えた、戦歴も浅い大将。

その赤備えと呼ばれた

多くの旧武田兵を率い

朱塗りの具足を身にまとい

 

周りからよせと止められたにも関わらず

部下たちを尻目にその戦場に

飛び込んでいったのは井伊直政。

 

部下たちの制止も聞かず

戦場に突っ込んでいき

どんどん敵の首を上げていく。

のちに井伊の赤鬼と呼ばれた男は

これまでもこれからも、、

ずっといくさではこんな感じの

命しらずの大将だったらしい、、、

 

そしてこの戦いにおいて

家康の命により

彼の付家老として

このいくさで多分、敵陣に突っ込んで行く

直政を追っかけ回し

はらはらと戦ったであろう安藤直次、、

 

直政のその横着ぶりに

冷や汗をどれだけかいたは知らないが

 

奮戦する直政のそばにいながら

安藤直次はそんななかで

その池田勝入に

一番槍をつけたといわれます。

 

、、その自分の生命を終わらす

覚悟ができていたかもしれない

勝入に槍をつけ

大将を討ち取るという武功を

直次は伝八郎と呼ばれた

のちの

永井直勝に譲り

 

伝八郎はその勝入の首を搔き切る。

 

また、安藤直次はそのあと

そのとき岐阜城城主であり

勝入の長男

池田元助をも討ち取るという

比類なき働きをしたという。

そして

勝入の次男であり元助の弟である

池田輝政、、、

 

彼もまたその父と兄の

戦死の報を聞き

その敵陣の中へ斬り込もうとする。

 

しかし家臣の必死の説得?

もしくは家臣の機転のきいた嘘?

(父や兄たちはもう戦場から離脱したという?)

により撤退、、、

 

この長久手の戦いにおいて討死は3000人を数え

3人もの大将首を取られた

池田、森軍は

壊滅に追い込まれたが

 

池田家は

輝政が生き残ったことで

彼がその跡を継ぎ

のちにいまは敵である家康の娘婿となり

あの有名な現在もなお残る世界遺産

(行ったことないけど)

姫路城の大改修を手がけていく。

 

 

それはともかく最初から、、、

話がずれているような気がするけれども

田辺城と呼ばれる

和歌山県 田辺市に

残るお城の跡

石垣と水門が残っているこのお城、、

その長久手の戦いで未曾有の武功を挙げた

安藤直次が

徳川家康から絶大な信頼を寄せられており

のちに、、

この地で家康の年老いてできた

十男 頼宣。

よく分からないが家康は60歳近いときに

生まれた孫のような息子、、、、

 

直次は

徳川頼宣の側近として仕え

その家系は

幕末まで続いていく、、、。

もともと豊臣秀吉の奥さま

寧々の親戚の関係から

浅野幸長の家老であった

浅野知近という武将が

この城を建てたといわれます。

太平の世が近づき始める頃

年老いた家康は、、

自分の死が近づくのを感じながら

将軍徳川家を存続させるため

ある 一つの手を打つ、、

徳川御三家と呼ばれる

二代将軍 秀忠とかなり齢の離れた

息子たちに

その江戸から離れた地で

徳川将軍家に次ぐ立場を持たせ

また西国の外様大名たちが

裏切らぬように監視、、、

 

薩摩や長州らが

裏切っても江戸まで辿り着けないように

その東へ向かう街道に沿って城を築き

 

また、江戸徳川宗家において

その血脈が途絶えた時には

この家康の息子たちである御三家

 

尾張家 徳川義直

紀州家 徳川頼宣

水戸家 徳川頼房

 

実は水戸家は御三家ではないが

勝手に天下の副将軍として名乗り

御三家の一つになってしまうという

なんだかよく分からない

事情もあったらしいが

 

結局 最後の将軍、徳川慶喜は

この水戸から現れますけれど

 

それはともかく

彼らの子孫を養子として

将軍を輩出していく定めを作ったらしい。

そののち、、御三卿と呼ばれる

江戸城内で暴れん坊将軍吉宗が

ややこしい後継の定めを作っていくみたいだが、、

 

 

その紀州藩、、

和歌山城に本拠を置いた

徳川頼宣。

徳川家康が死んだのち

若き頼宣の家老として

この和歌山へ付き従ったのは

この安藤直次という

長久手の戦いで活躍し

もともと

三河衆の身分の低かったという武将。

このひと、、

というか今も残る

三河武士のそれぞれの物語、、

 

本多重次とかもそうですけれど

この安藤直次も

探せば探すほど、、面白い

たくさんのエピソードが

出てきます。

 

 

なんだかこのひとは、、

若い頃は、家康お気にいりの美少年

井伊直政を寝取ったりとか

 

同僚が昇進していくのを見ていても

分をわきまえ?周りが気づくまで

愚痴ひとつ言わず忠義のみ尽くしていく話とか

また、調子に乗っていた

本多正純はいつか堕ちるであろうと予言したとか

だが、、、

やはり彼の性格を

裏付ける?あらわすのは

長男である

重能(しげよし)

を失った時ではないでしょうか、、

 

大坂夏の陣において

息子である重能は討ち死にしたという。

父、直次は

息子の遺骸を見たか見ていないか

その大阪の戦陣において

報告を受けたとき

 

自分の感情を押し殺し

どう心の分別を整理したのか

もはや彼にしか分からないある発言。

 

その周りの戦意を挫かぬようにと

彼の気持ちは計りしれないけれど

息子の遺骸を

 

「そのへんの犬に食わせよ」と

冷たい言葉を放ったといわれます。

しかし、、いくさのあと

彼はどこかでひとり

誰もいない場所で息子の死を悼み

何時間も咽び泣いたといいます、、、。

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