1860年

加藤清正邸  井伊掃部頭邸跡

令和元年の即位の礼のパレード

 

、、一生に一度くらい

天皇陛下や皇后陛下を一目拝したい

、、、(みてみたいと)

 

令和元年10月22日に

わざわざ岐阜から会社を休んで

東京へ行く準備をしたは

いいけれど

 

いろんな事情が重なって

 

パレード延期のニュースが耳に入る。

 

、、残念だが、まあ

こればっかりは

しかたない、、、

 

それはともかく

もともとの(自分の)予定に合わせ

皇居あたり散策したのは

その10月21日。

 

桜田門駅を出ると

国会議事堂が見えます。

その国会議事堂のそばにあるのは

この看板、、

 

あの虎退治で有名な

加藤清正の屋敷跡であったらしいが

 

1601年(慶長6年)に

加藤清正は亡くなったことで

跡を継いだのは三男の忠正だったが

関ヶ原において西軍に勝利し

天下をほぼ手中に

おさめた徳川家にとっては

 

豊臣家の忠臣である

加藤家はもはや目障りな存在でしかなく

三代将軍家光の時代になると

 

あっという間に

改易させられます。

そのあと彦根藩

井伊家が長きに渡り

この屋敷を拝領したという。

ここにあった屋敷から

その歴代の井伊家の藩主たち

大名行列を引き連れて

お城へ登城、、、

だが幕府の終焉を

迎える少し前

 

その大名行列が襲われるという

かつてない

前代未聞の大事件が起こります。

 

彦根藩13代藩主

井伊直中の14男であった

井伊直弼は

 

30歳を過ぎても養子の口さえ見つからず

滋賀県 彦根城下の片隅にある

小さな屋敷で過ごしたという。

 

 

僅かながら生活費は彦根藩から支給され

どこにも行けないけれど

生活は困らないなか、、

 

この現代でも、、

考えさせられるような

それは幸せなのか不幸せなのか

直弼自身がどう思っていたのか、、、

 

 

それでも時間だけは有り余っており

お茶やら歌やら鼓やらやりながら

チャカポンと世間では呼ばれ

やるせなく過ごす日々が続く。

 

だが、、、

 

彼にとって幸か不幸か

衝撃的な話が

舞い込んでくる。

 

兄であり14代彦根藩藩主の直亮には

息子がおらず

その次の井伊家の跡を継ぐ予定の

直亮の弟であり直弼の兄であった

直元が急死し

 

直弼のほかの兄たちは全て

すでに養子に行ったり

独立したりしてしまっており

その唯一残っていた弟

直弼に白羽の矢が立ち

35歳にして

15代彦根藩藩主となったという。

 

あの徳川四天王と呼ばれる

井伊直政から譜代大名筆頭として

とにかく先鋒をきって

徳川将軍家を守るべく続くのは

彦根藩井伊家の血統。

 

ペリーの黒船来航から

幕府は開国だの鎖国だのと

揉めに揉めた末に開国の扉を

渋々開いたはいいが、そのあと

 

アメリカの外交官ハリスがやって来て

貿易を自由にやらせろ

 

日本中商売がしやすいように

いろんなところに港を開け

 

アメリカ人が日本で悪さをしても

裁判はアメリカ人が行う

 

輸入の際の関税は

アメリカに有利な税制で商売させてもらう

 

などと不平等な条約を

結べと迫ってくる、、

その条約を締結しないと

外国との戦争に

なるのではないかと脅される、、

 

あの黒船を見た者にとっては、、

とてもじゃないが

日本は勝てるわけないと

誰もが考えるなか

 

その条約を締結すべく許可を

天皇から得るため

ときの幕府老中 堀田正睦は京へ向かう、、、

 

だが公家の人たちによる

条約反対のデモもあって

その勅許は得られぬまま、、、

 

またちょうどそのとき

将軍の後継問題もあって

この頃病に倒れた13代将軍

家定には子供がおらず

次の将軍を誰にするのか

江戸城内で揉めている。

 

しまいにはこの時代、、

大地震が立て続けに起きて

大混乱の情勢の中で

 

そして

、、こののちコレラという

とてつもない感染症も猛威を振るう中で

 

井伊直弼は

その問題解決の

見通しのつかぬまま

突如

幕府の最高権力者として

大老に任命される、、、。

 

彼は悪徳政治家のようなイメージではありますが

もともと、、腰も低く、、

他人行儀で柔らかい人であったともいいます。

大老となった

井伊直弼。

 

それからの彼は

権力を武器に

自らの持つ正義を

次々と振りかざしていく。

 

その将軍後継問題では、、

 

のちに烈公と呼ばれた

水戸斉昭の息子である

一橋慶喜を支持した

外様大名

薩摩 島津斉彬や

土佐 山内容堂

越前 松平慶永らが

幕府の政治において口をだすなど前代未聞。

直弼が大老になる前

まだ一大名として

溜詰という将軍の取次ぎ役であったころは、、

 

老中阿部正弘により

これまで幕府の政治に口出しすらできない

外様大名の意見、、果ては庶民の意見までも

求めていくという対策をとっていたというけれど

 

そんな幕府の弱腰でなんとも情けない姿を見ていたという

直弼、、、

長く続いた幕府の威信というものが

少しづつ崩れていく状況を

きっと歯がゆい気持ちで見ていた。

 

大老直弼は、、

将軍家定公の後継問題において

血統順守を守り

血の繋がりは濃いが

まだ少年であった

紀州徳川慶福、、のちの家茂を

次期14代将軍とし

 

その慶喜を推していた

水戸、外様大名らの意見を一蹴し

彼らを失脚させる。

また

幕府の権威を取り戻すべく

攘夷と呼ばれる

水戸斉昭らを中心として

世間では外国人を神国日本に

入れるなという意見を退けて

 

結局、朝廷の許しを得ないまま

日米修好通商条約締結の道を選ぶ。

そのあと

イギリスロシアオランダフランス

どんどん

同じ不平等な条約を

結んでいくこととなる、、、

 

 

そこで薩摩の

島津斉彬は、、、

今の情勢を憂いて

直弼と話し合い?をしようと

5000人もの兵と共に

東へ向かうが、、、

しかしその道中

日本の未来を変えられぬまま

斉彬は急死、、、

 

京都では

江戸で勝手なことをしていく直弼に

激怒したのは孝明天皇。

 

彼は

戊午の密勅と呼ばれる

最高権力であった

幕府をすっ飛ばし

水戸藩にこっそりと勅命を出し

 

もう少し幕府の考えを改め

他の大名とも話し合ってほしい。

我々朝廷の意見も聞いてもらいたいと

密命を出したが、、、

 

幕府を舐めていると

その態度に激怒した

井伊直弼。

 

裏で朝廷を操って

幕府の威厳をコケにし

馬鹿にしたものは

全て粛清していくと始まるのが

あの有名な安政の大獄、、、

 

かつて

彦根城の片隅でニートのような生活をしていた

男はなぜか日本の

そして崩壊していく

幕府の運命を背負い

 

その覚悟は、、

 

果たしてどのタイミングで

その謙虚な殻を脱ぎ捨てたのかは

知らんけども

人が自分の信念を

貫き通していくというのは

本当に大変です、、、

 

しかしその独裁的な政治は

長くは続かず

その反動はやってくる。

 

安政の大獄により多くの志士達の

人生を狂わせた幕府の最高権力者は

あまりにも多くの敵を作りすぎ

予期せぬかたちで生涯を終える事となる、、

 

1860年(安政7年)

3月3日朝の9時ごろ、、、

その日は季節外れの

ぼたん雪がつもり

 

少しづつ

雨まじりの雪へと変わっていくころ

 

この時代の江戸の人たち、、

武鑑という大名図鑑を片手に

どうも大名行列を見物すべく

朝から物好きな人たちが

いつもこのあたりにいたらしい、、、

 

その光景は

もはや風物詩のように

どこの大名行列に並ぶ侍たちも

疑ったり油断すら感じることの

ないような雰囲気のなか

 

この日は

その物好きな人たちに紛れ込む

、、18人の襲撃者達。

 

ここにあった

藩邸の屋敷の門が開き

江戸城桜田門へ向かう

500メートル?くらいの

僅かな距離。

桜田門外において

水戸浪士のひとり

森五六郎がその大名行列へ

絶叫するがごとく

お願いの儀がござると

籠に向かって直訴。

またか、、、

 

とその陳情してくる男を

取り押さえるべく

制止に入るのは彦根藩士供頭

日下部三郎右衛門、、、

 

だがその刹那

森によって

三郎右衛門は

突如真っ二つに顔面を斬られる。

 

彦根藩の護衛は総勢60人程、、

その彼らの視線が一気に

その森五六郎の方向へ

向かった瞬間

 

別の方向にいた

水戸浪士

黒澤忠三郎が放つピストルの

撃鉄が落とされ

 

その弾丸が

一直線に進むのは

井伊直弼が中にいる籠、、

 

それは

籠を貫いて

直弼の腰骨を砕き

 

居合術の達人であったといわれる

直弼の

下半身の神経を

一瞬で奪い取ってしまったという。

 

 

そして籠を出る事すらできなくなった

直弼、、、

 

血溜まりの籠の中で、、、

 

これからの幕府の未来

日本の未来

そして自分の

人生の終わりについて

 

少し考えたのかもしれない。

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