1566年

亘利城

1544年(天文13年)に

信長の父

織田信秀は

美濃国を侵略すべく稲葉山城へ進撃。

木曽川を渡り、ここ無動寺城を取り囲む、、、

対する

斎藤道三の命により

光得寺砦とも呼ばれたこの砦の防衛にあたったのは

土岐頼香。

 

かつての守護大名であり

道三の謀略により美濃を追われた

土岐頼芸の末弟であり

道三の娘婿であった頼香は、、、

その信秀率いる尾張兵が

無動寺城を取り囲んでいるなかで

 

どさくさに紛れて

道三の密命を受けていた

松原源吾に追い詰められ自害、、

この地に葬られる、、、、。

 

その松原源吾、、、

彼が本拠地としていたのが

岐阜県各務原市にある

亘利城(わたりじょう)。

尾張と美濃に挟まれた木曽川の中洲にできたためか

戦国の頃とは川の流れや地形も変わっているようで

この亘利城はかつて尾張の地だったといい

看板に書いてあるように

このあたりは

松原島と呼ばれ

城というよりも広大な屋敷であったらしい。

そのころ斎藤道三の部下として

亘利城城主 松原源吾は

松原島あたりの有力な

土豪として土岐家から斎藤家

のちに織田家へと

その時代を見極めながら主君を変えていったという、、、

その、斎藤道三の刺客として

土岐氏滅亡への一端を担う

松原源吾。

 

彼には松原内匠という弟がおり

木曽川において操船術、建築術を得意とし

兄のもとで

この木曽川河川敷あたりに

独立勢力を築き

水運業や渡し船とかしたりして、、、

また、どこかでいくさがあれば

傭兵部隊として金で雇われ

戦ったといわれる

今でもあまり庶民は関わりたくないと

思われる

血の気の多そうな集団、、、

 

その棟梁こそ

木曽七流

川並衆と呼ばれる2000人をとりまとめていたという

蜂須賀小六。

話は変わりますが

 

どこの身分から生まれたかも分からない

右手の指が6本あったと言われる噂のある

少年は

小さな頃から、、

言語に絶することが出来ないほど

悲惨な苦労を重ねたという、、、

 

他人よりも容貌は醜く

猿だのなんだの馬鹿にされ

身体も小さく膂力は人並み以下、、、

 

義理の父親から嫌われて

その実家を出ていったか

追い出されたか、、

 

それから

針売りやどじょうを売ったりの

行商をしながら

三河や遠州、駿河への旅をし

ときに物乞いさえ

厭わないような生活を続けていたという

少年は、、、

身長はあまり伸びないまま青年となり、、

 

放浪を続けたあげく

仕官先を探し、、、

ようやく遠州今川家の

末端のほうの家臣

松平加兵衛に仕えたはいいけれども、、、

 

のちに、、加兵衛はこの縁がもとで

出世するらしい。

縁とは不思議なもんです、、、

 

しかしどうも、、何をしたのか

その小さな男は

同僚やらなんやらの妬みを買ってしまい

結局松平家を去り、、

 

尾張に戻ってから

のちに信忠や信雄の母親として

織田信長の妻となる

生駒屋敷の吉乃と呼ばれる女性の

ご機嫌取りにいったのか

それとも、がんまくとか

一若と呼ばれる

織田家の足軽のつてからか

分かりませんが

いずれにせよ

その小猿のような男は

木下藤吉郎と名乗り

 

まだ尾張の片隅で、、、

うつけものと

まわりからは煙たがられ

織田家の未来を暗くさせるような

振る舞いをしていたという

若き織田信長のもとで

奉公をする、、、

 

そして、、

尾張を制覇した頃の信長は

今は亡き

父信秀の野望と

舅道三の思いを受け継ぎ

 

美濃攻略に取り掛かるが

難攻不落の稲葉山城に

近づく事すら出来ない状況だったという。

そして美濃攻略の足がけとしてある場所を狙う。

 

「墨俣」

と呼ばれる陸だか川だか

なんともいえない荒地であったというが

 

東国と西国の交通や戦略上の

重要な拠点であり

鎌倉の時代から

幾度もこのあたりでいくさが行われたという、、

IMG_1185

その尾張国と美濃国の国境にある墨俣に

信長は家老佐久間信盛に

城を築けと命じるが

築いている間に

美濃から襲撃を受け

 

、、、失敗。

そのあとも佐々成政や柴田勝家とかにも

墨俣城築城を命じたが

幾度も失敗したという。

 

ついに、、

しがない奉公から、、、

織田家に仕えて十何年経ち、、、

ようやくサムライとして認められた

織田家の末座の身分の木下藤吉郎、、

 

彼は少年から織田家に仕えるまでのあいだに

流浪のころにどこかのなにかの縁により

 

川並衆の棟梁であった

蜂須賀小六と知り合い、、、

 

木下藤吉郎は

蜂須賀小六に墨俣城築城の

協力要請を依頼。

 

小六にとって、、

かつての惨めな姿を知っていたであろう

 

藤吉郎がそのとき

どう映っていたのか

分かりませんが

まだわずか百人の足軽の組頭だったという

藤吉郎の何かを感じとり

 

蜂須賀小六率いる川並衆は

墨俣城築城の最大の協力者となり

 

そして、、

松原源吾の弟であり

のちに亘利城城主となる

松原内匠が

大工の総棟梁として

 

銃弾の駆け巡るなか

墨俣一夜城を築き上げることとなる、、、

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