徳川家康の長女として生まれた
亀姫。
彼女の夫となる
奥平信昌は
もともと武田信玄に仕えていたといいます。
しかし
信玄が死ぬと徳川家康に帰参する、、、。
この裏切りに対して
信玄の後継であった
武田勝頼、、
奥平信昌がその頃城主であった
長篠城めがけて大量の兵を率いて
攻めてくる、、、
だが
僅かな兵で長篠城を守りきったという
奥平信昌、、、
亀姫は彼の妻として
関ヶ原の合戦のあとには
美濃加納10万石を領し
彼女は
加納御前と呼ばれるようになる、、、
亀姫の母親の名は
瀬名姫。
今川義元の娘であるが
義元の妹の娘を養女としたそうです。
そのころまだ今川家の人質となっていた
松平元信と呼ばれる
若き日の家康と夫婦になり
息子である信康と
長女亀姫を産みます。
だけれども桶狭間の戦いにおいて
今川軍についていた家康、、、
今川義元が織田信長に討ち取られてしまい
まだ今川家の人質であった家康は
自分は人質を解放された
気分になったのかどうか
部下たちの意見も聞きながら
この状況で最善の策を考えていたのかは
知りませんけれども
家康は、、、
駿府で今川家の人質となっていた
瀬名姫や息子の信康のもとへは
帰ってこない、、、、
このあいだ、、いろいろあったと思いますが
結局、、家康は
本拠地、岡崎城において
妻や子を駿府今川家に残したまま
織田信長と同盟を結んでしまう、、、
これを聞いた今川義元の息子で
後継ぎであった今川氏真は
激怒する、、、
(そりゃそうだ、、、、)
今川家の人質となっていた
瀬名姫の両親は
この娘婿の裏切りにより
無理やり自害させられてしまいます、、、
そのあとはなんとか徳川家臣である
石川数正のとりなしにより
瀬名姫は
岡崎にいる夫、家康のもとへ、、、、、
いくと思ったら
瀬名姫はその夫のいる岡崎城へは
入ることなく
近くの築山というところで過ごしたという。
瀬名姫は、、、
ここから築山殿と
呼ばれることとなるといいます。
そして追い討ちをかけるように
家康と築山殿の長男である
信康、、、、彼は
織田信長の娘と
なんと9歳!?
で結婚する話が進められちゃったらしい、、、
築山殿にとっては
可愛い息子が
母の兄の仇と結婚する、、、
、、、これは、、、、
たとえ、、お家を守るとしても
両親をも殺されたうえ
彼女が
受け止めざるを得ない気持ちというのは
果たしてどんなものか、、、、
なんとも整理のつかない
ややこしい状況のなか
桶狭間の合戦から10年も経ったころ
築山殿はようやく岡崎城へ入城、、、、
しかし、、、、
すぐに家康は妻をおいて
浜松城へ移動しちゃいます、、、、
だが、、、
、、、
築山殿、、、信長の娘であり
生駒吉乃の娘であったという
徳姫と
結婚した信康との間に
男の子が生まれなかったことを理由に
織田家の敵である
武田家と関わりのあった女性を
信康の側室として迎えさせたといいます、、。
これにより、、、、、
築山殿が織田家を裏切り
武田家と内通していると疑われるのも
仕方のない話ですが
信長の娘であり信康の妻、徳姫は
どうも嫁ぎ先でお姑に
冷遇されている状況だったという、、、
父である信長に
12箇条にもわたる弾劾状を
出したという、、、。
そして、、築山殿は
怒った信長の命令か
それとも家康が
自身の将来を危惧したかもしれない、、
どちらにせよ、、、
築山殿は自害を迫られたか
殺されてしまったか
不幸な最後を遂げる、、、、、
そして息子である信康も
切腹に追い込まれたといいます。
だがじつは
信康のクーデター疑いとかいろいろ
噂はありますけれども、、、、、
、、、
、、お母さんの話が長くなっちゃいましたが
その築山殿の娘である亀姫。
今回行った十二相祠堂阯。
岐阜駅の近くにありますが
、、、
扉に閉ざされ
ここも入れません。(またか、、、)
そしてこれ以上
立ち入る勇気はありませんけれども、、、
どうもどなたかの土地のようです、、、
道端には堂々と石碑が建っています。
なんとか写真だけと思い、、、
遠目から
こんな感じで
お墓?祠?らしきものが建てられ
脇には説明書き?のような
石板が並ぶ、、、
亀姫は、、嫉妬深かったという噂もあり
この時代、、、普通?のことであった
夫である奥平信昌には側室を置かせず
夫婦自らの営みで5人も子供を産んでいます、、
見方を変えれば、、、
二人の愛情が深かったかもしれませんが
太平の世になり
あの有名な徳川家康の参謀
本多正信。
彼の息子
正純はどうも亀姫に恨まれたといいます。
身内がどうも彼の陰謀により
改易させられたりしたらしく
その改易後に
本多家が跡を継いだというが
納得できない亀姫は
その引越しの際には
自宅にあった全てのものを
障子、襖、、、畳、、果ては庭木まで
残らず持って行こうとしたといいます。
また、、あの二代将軍徳川秀忠、、、
彼が父、家康の法事のため
日光東照宮に向かう際に
正純は宇都宮城で
釣り天井を仕掛けて
将軍暗殺を企てていると
噂を流したらしい、、。
その結果、、、
(ほかにもいろいろ原因はあるみたいですが)
正純は失脚し
東北の地
秋田県横手において
寂しい一生を終えたといいます、、、。
この十二相祠堂阯は
1607年(慶長12年)
関ヶ原の戦いと大坂の陣の
あいだの
まだまだ政情不安定な時期に
亀姫の侍女たち12人、、、
咎め(処刑?)
にあったといわれます、、、
なぜ咎めにあったのか
今はもう
誰にもわからない、、、、、、
一気に亀姫の命により
12人の、、
咎めを受けた女性たちの
鎮魂の石碑、、、。
昔は誰でも行き来できたそうです。
まわりの景色がどれだけ変わっても
この石碑は
岐阜の町の片隅で
400年以上も残ります、、、、、
後世において、、、
いまもって誰にも伝えられない
理由があり
この祠が誰かの手により
つくられ
今も残されています、、。
しかし、、、、いろいろさまよっていると
入れないところとか
よく分かんないところとか
これは入ったらやばそうなところとか、、
、、次回は行ったけれども
たどり着けなかったところもあります、、、
はるか紀州の地において、、、
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