戦国時代のスナイパー、、、
生涯53度の合戦に参加し
41通もの感状を得たと言われる
大島光義、、、
彼の弓の腕前は
もはや神がかっていたらしい。
鉄砲が全盛になりつつ時代に
自身は流行り?に
揺らぐことなく
弓の鍛錬を欠かさなかったという。
、、ちょっと揺らいでも
槍のプロフェッショナルとなるべく
鍛えに鍛え、、、
弓において様々ないくさで
百発百中の妙を得て
つぎつぎと
敵を射倒し
そして、、、
これまた凄いのは
彼は関ヶ原の合戦にも参加したらしいが
そのとき、御年93歳だったといわれます、、、
とどめは、、
京都において豊臣家に仕えていたころ
あのたしか
清水寺へ向かう途中に見えた
法観寺 八坂の塔、、、
その46mある五重の塔の
最上階の窓を指差し
誰かその窓に
矢を放てるものはおらぬかと言ったのは
秀吉の甥であった関白秀次。
その秀次の部下としてそこにいたのは
大島光義84歳。
もう弓は時代遅れとなり
鉄砲が全盛となるなか、、、
自ら名乗り出たという
光義の姿を見た
周囲のものは年寄りの冷や水だと笑う。
しかし彼は10本の矢を放ち
その全てが
八坂の塔の小さな窓に吸い込まれていくのを
見たであろう、、、
その矢はすべて最上階の天井に
突き刺さっていたらしい。
、、そして岐阜県関市にある大雲寺。
このお寺の奥に
彼はいまも眠っています、、、、。
話は変わりますけれども、、、、、
このお寺の近くにある岐阜県博物館、、
いま、なかなか興味をひく特別展がやっていたので
見に行ってきました。
だが、、、
予想通り特別展のなかは撮影禁止、、
まー仕方ないけれど
この特別展、、
ここにあの
新選組局長 近藤勇が
江戸板橋刑場において
斬首される際に使われたという
「脇差 二王清綱」
という刀が展示されていました、、
見に来た人を圧倒させるくらい
燦然と輝いています。
、、、ほんとは
この刀だけ写真OKでしたが
どうも畏れ多いので個人的に心のなかに
閉まっておきます、、
その近藤勇の斬首の役目を担ったのが
岐阜県揖斐川町出身の剣豪
横倉喜三次。
そして関市といえば700年もの伝統をもつ
刃物のまち、、、
岐阜県の幕末に関わった人々の
ゆかりのものがずらりと並び
けっこう、、、好きな人は好きかも、、、
話がずれちゃいましたが
大島光義。
彼は美濃斉藤家に仕えるも
斉藤家が没落してからは
その弓の腕を買われ
織田信長の家臣となる、、、。
よほど弓の腕前が有名だったみたいです。
姉川の戦いや長篠の戦いなど
数多のいくさに参加した光義は
白い雲をうがつような働きと賞され
信長から
「雲八」
という名を貰ったといいます。
本能寺の変により信長が死んだあとも
弓大将として豊臣家から徳川家に仕え
美濃国関藩1万8000石の大名として
97歳の大往生を遂げる、、、。
もはや戦国時代の
レジェンド?語り部?のような
この男は
職人のようにコツコツと
己の腕一つで弓技を究めようと
日々鍛錬を欠かさず
その名をようやく
世に知られるようになったのは
還暦も間近の頃だったというのが
、、本当になんだか、、、すごい、、、
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