愛知県江南市。
戦国の時代には
生駒氏が武家商人として
このあたりを仕切っていたといわれます。
小折城と呼ばれる屋敷から少し(田舎なので歩くと長いですけど)
離れた場所にある
小高い丘の上にあがると、、、
六角形の石碑があります。
ちょっと変わっているのは
その石碑の下は
亀が台座として支えてる、、。
(指が写ってすみません、、、)
「富士塚の碑」
と呼ばれ、むかし徳川家康が
小牧長久手の戦いに向かう際
織田信雄とここに登り
敵対する豊臣秀吉の軍を見渡したらしい。
見渡せるような高さではないけれども
しかもこの丘、、、
もっと昔、、、もともと古墳だったという、、
生駒家広から始まる
生駒氏、、
小折城を居城として財をなし
3代目生駒家宗の時代には
織田家に仕えていたといいます。
あの織田信長の子供達
織田信長の跡を継ぐが本能寺の変に巻き込まれて自刃したという
織田信忠
偉大なる父を持ちながらお坊ちゃん気質で秀吉に天下を奪われたにも関わらず京都でのんびり過ごし長寿を全うした
織田信雄
徳川家康の嫡男に嫁いだ(わずか8歳!)はいいけれども夫は切腹、、その後は京都で天寿を全うしたという
徳姫
の母親である
生駒吉乃は家宗の娘として生まれ早逝、、、
吉乃の兄弟である
4代目 家長は信長のもとで浮野の戦いや桶狭間の戦いと
信長が尾張の版図を広げるころから仕え、数々のいくさに参加したそうです。
信長が本能寺の変で死ぬと
甥の信雄に仕え小牧長久手の戦いののち
豊臣秀吉に仕えて小田原征伐に従軍。
5代目 利豊も小田原征伐に16歳で参加し
のちの関ヶ原の戦いでは東軍である
福島正則の軍に属し参戦。
のちに尾張藩藩主、徳川義直の家臣となり
生駒家は幕末まで続いていきます。
そしてこの亀の石碑は
6代目 利勝が生駒家の由緒と武勲を伝えていくため
1682年(天和2年)に建てたといわれています。
でも、、もう350年も経つと、亀の顔面も崩壊、、、
(修繕の予定はあるんでしょうか?)
六角形の石碑に彫られている文字も
なんとなくわかるような分からないような、、、
、、まあそれはともかく
生駒氏の血脈は
阿波生駒家や
讃岐生駒家と遥か四国まで拡がっていきます。
その讃岐生駒家、、、
2代目豊政の妹の嫁いだ代から始まるそうですが
関ヶ原の戦いにおいて
この讃岐生駒家
親である親正が西軍につき
子の一正が東軍について
西軍東軍どちらが敗れても
生駒家が存続するようにしたといいます。
どこかで聞いた話と思えば
あの有名な
信州真田家の
「犬伏の別れ」
真田昌幸と二人の息子
真田信幸と真田信繁との
関ヶ原前夜の親子の密議、、、
関ヶ原の戦いだけに関わらず
多くのいくさの前には
こんな風に家を残すため
どちらの味方に誰がつくかと
身内の苦渋の話し合いが
きっと、色々なところで
行われていたのかもしれないですね、、、
でもまあ、、結局この讃岐生駒家
のちに
身内の争い、、、、
お家騒動で大騒動したらしい、、
先人の残した配慮や覚悟は
なんだったんだろうかと
思います、、、
ッほんと難しいな、、、、、、、
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