1575年

松平伊忠戦死之地

徳川家の家臣として

勇猛果敢で義理堅く忠義に尽くすといわれる

三河武士のひとり

松平伊忠が長篠の合戦で

戦死をしたとされる場所、、、

ちょっと長篠城を見に行って、その帰りがけ、、、迷った挙句

たまたま見つけたこの石碑

桶狭間の戦いで今川義元が討たれたあと

それまで今川氏に服従していた

松平元康、のちの徳川家康は

このいくさのあとから

今川家からの独立を図り

織田信長と同盟を結ぶこととなります。

まだ若き徳川家康の傍で

三河一向一揆の鎮圧や姉川の合戦、三方ヶ原の合戦など

数多くの戦いに参戦し深溝松平家の三代目として

松平伊忠は次々と武功を挙げていきます。

武田信玄亡き後の

1575年(天正3年)

後継者である武田勝頼は長篠城を包囲。

1万人以上の武田の大軍を相手に

徳川軍、奥平信昌らが

たった500人で城を

守り通していた頃

長篠城の手前、設楽原に到着した

織田信長、徳川家康連合軍は

味方の兵をいかに失わず

武田軍をどう殲滅するか

作戦を考える、、、

鳶ヶ巣山奇襲戦と呼ばれる攻略戦に参加した

松平伊忠は

この戦いで武田信玄の弟である

武田信実を討取るという

戦果をあげたそうです、、

でも

武田軍の敗残兵を追撃し深追いしすぎ

反撃され討ち死にしてしまいます、、、

深溝松平家の

徳川家康に対する命をかけた忠誠心は

伊忠だけではなかった、、、

このいくさの14年前には

伊忠の父である

松平好景は

徳川家康が

今川家から独立しうるなか

三河統一を図ろうと吉良氏との間で起こった

「善明堤の戦い」

といういくさで息子と同じく

深追いしすぎて討ち死にしたそうです。

(血の気の多い親子だったんでしょうか、、、?)

 

また伊忠の息子である

松平家忠

彼は父と共に長篠の戦いに参戦し

鳶ヶ巣山奇襲戦に

同行するつもりだったみたいですが

伊忠に止められ、言われたそうです。

もし、自分が死んだ場合には家名を継ぎ

家康公に忠義を尽くせと。

諭された伊忠、家忠親子はここで別れることとなり

家忠は父が戦死したのち

深溝松平家4代目当主となります、、、

、、、それから

25年もの月日が経ち

家忠は

関ヶ原の戦いの前哨戦である

鳥居元忠率いる

伏見城の戦いと呼ばれる

籠城戦においてともに防戦、、

だが、、西軍に攻め落とされ

家忠は戦死することとなります、、、、。

親子三代、時代背景?もあるとは思いますが

なんとも命を賭け

徳川家康に忠義を尽くした

凄みのある血統は

明治維新まで続くみたいです、、、

最後に、、

、、、、、

鳶ヶ巣山で奇襲を受け

討ち死にした

武田信玄の弟である

武田信実の太刀の名は

「袖の雪」

と呼ばれ、この戦いで

奥平信光という武将が分捕ったといわれます。

だが、、

武田信実の怨念が

残っていたらしい?という噂があるらしく

何百年ものち、、、、

昭和の時代に

どこかの美術館で、、、、

、、、奇妙な出来事が

連日のように

続いたといいます、、、、、


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