1612年

名古屋城

御三家と呼ばれた名門、尾張徳川家。

 

広大な敷地のなかにあった城の跡にある

かつて、那古野城と呼ばれ

駿河の今川氏親が築城したとされる城を

織田信秀が奪い取ってしまい

息子である

織田信長はここで誕生した話も残ります。

でも

そのあと

一度、廃城になったそうです。

1600年(慶長5年)

関ヶ原の合戦ののち

 

徳川家康は京都御所へ参内し

征夷大将軍へ任ぜられます。

 

ここから豊臣家家臣であった徳川家康が

日本の最高権力を握ることとなり

 

家康は大阪豊臣方への備えとして

全国の諸大名に土木工事を命令し

名古屋城を50年ぶりに築城。

いまある天守閣は入場禁止でした。

 

そのうち壊してしまうようなので

 

写真撮っておいてよかった、、、

これで天気が良ければ、、、

これから名古屋市は

木造天守閣を復元するという大事業を計画中です。

もともと天守閣があった跡も残っています。

「徳川御三家」

 

徳川家康が、江戸将軍家の

跡継ぎが生まれなかった場合に

 

多くの息子たちの血筋から選び

将軍を輩出できるようにしたといわれます。

 

尾張名古屋に9男 徳川義直を城主とし

紀伊和歌山に10男 徳川頼宣を城主とする、、

また11男 徳川頼房が茨城水戸に。

その名古屋城初代城主

徳川義直は

 

1616年(元和2年)に尾張へ入国。

日頃から質素倹約、文武両道

くそがつくくらい

まじめなお方だったそうで

 

甥である三代将軍徳川家光も

彼には辟易したそうです。

 

また彼は徳川家康の息子ながら

天皇を崇拝する尊皇思想に

影響されていたそうで

その考えは尾張藩の政治、、

また幕末に至るまで続いていくようです。

その幕末まで尾張藩藩主は

17代続きますが

 

7代目藩主 徳川宗春というかたは

なかなか面白く

 

ちょうど暴れん坊将軍、徳川吉宗の時代

 

飢饉が続き、幕府も財政難で

かなり景気も悪かったそうで

庶民にはとにかく

贅沢するな、芝居や遊郭、祭りはやめろ

いいもん食べるな!と

 

質素倹約を推し進め

吉宗自身も身をもって質素に努めた

生活をしていたという。

 

そんな頃、、、

宗春は

 

江戸から離れた名古屋の地で

派手な大名行列やったり

芝居興行をどんどんやろう

町民以外の藩士たちも見に行っていいぞ

遊郭もどんどん営業しろ

祭りや盆踊りもどんどん楽しめ

 

城下には明かりをたくさん増やすから

女子供も好きなように夜遊びもしていいよと

 

ときの将軍吉宗の政策の

真逆を行くがごとく

 

庶民に楽しみや元気を与え

名古屋は一気に繁栄したそうです。

 

また宗春は死刑を

無くそうとし、それよりも

死刑に値するような犯罪者が

出ない町を造るように

努めていたそうで

 

とにかく派手好きで

庶民に対しても愛情溢れる殿様だったそうです。

、、、でも

なんだか今の名古屋城は

加藤清正、、

清正石、、、

別にそれはそれでいーが

 

名古屋城の普請をし石垣を築いた

加藤清正が名古屋城城主ではないかと

疑わられるほど

、、、

いや

関係あるにはありますがなぜ

こうなるのでしょうか、、、

 

、、まあ、それはともかく

名古屋城といえば金のシャチホコ。

 

盗賊、柿木金助が1712年(正徳2年)に

大凧に乗り名古屋城のシャチホコの鱗を

盗んだという伝説があります。

 

そのあとも、、

なんと昭和の時代において

シャチホコの金の鱗を盗んだという人もいて

盗んだ人たちの気持ちや

おかれている環境とか状況は

 

分かりませんけど

はたから見れば痛快で面白く

なんだか凄いですね。

でも、、さすがに平成の世には現れなかったみたい。

木造天守閣が出来たら、、、

またシャチホコの鱗を盗もうとする

盗賊がいつか現れるかもしれない。

 

誤解を受けるかもしれないが

聞くだけならそれはそれで痛快、、

そうならないように生きていきたいが

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