1570年

田代城 

でんだいじょう、と呼ばれたお城は

今はもう神社となっている、、

 

1553年(天分22年)

聖徳寺において

出会いを果たしたという

斎藤道三と織田信長。

2人は帰路をともにしたあと

ここ、田代城で別れの儀式をしたといいます。

そのあと

 

斎藤道三は稲葉山城に戻り

織田信長は那古野城へ、、、

 

この田代城、、

素人目でも

お城の名残は感じられず

 

城跡であるという看板も探したけど

 

どこにもない、、、、、

 

 

もっと昔はお寺だったそうですが

 

、、、この城は1500年代初頭に

あの「鬼武蔵」森長可 の先祖の

森可勝が

初代城主として築城したといわれます。

 

森長可や森蘭丸の父親の

森可成。

この地で誕生したようで

美濃国守護大名の土岐家に仕え

土岐家が没落してからは

織田信長に仕えたそうです。

そのあとは織田信長の傍らで篤い信頼を受けながら

「攻めの三左」と呼ばれ

彼もまた、息子である鬼武蔵と同じく

十文字槍を武器に

多くの戦で暴れまわったようです。

しかし志賀の陣と呼ばれる

織田家VS朝倉、浅井軍と石山本願寺との戦、、

連合軍は京を目指す、、、

琵琶湖の西岸で

攻めの三左は宇佐山城から侵攻を阻止しようと

朝倉勢、浅井勢と戦い

1570年(元亀元年)

48歳で討ち死にします。

 

彼は子沢山で、長男の可隆。

彼は父よりも先に

朝倉勢との戦いにおいて戦死したといいます。

 

次男はあの鬼武蔵と呼ばれる森長可。

(この家はみんな「可」がつくんですね。どういう意味だろ)

森蘭丸も含め

 

攻めの三佐は

 

六男三女という

子宝に恵まれたようです。

しかもこのご時世

正室である妻のみを大事にし

子供は全て正室との子、、、

、、凄いな、、、

この時代というか昔は、夜とか

テレビやネット、ましてやラジオもない時代、、、

やること今より限られますしね、、、

 

しかし凄い、、、

 

一度テレビで見てみたいですね

「六男三女の大家族 森さんち」

、、、、

いや、別にいいか、

 

 

、、別にいいか、、、

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