蝦夷(エミシ)と呼ばれた
冬は雪で埋もれ春になれば
豊潤な土地の中で
人々は田畠を耕します。
平安時代
朝廷のまだ目が行き届かない
未開の土地であったといい
朝廷は何度も
その蝦夷地方にいる
彼らに勧めていきます。
それを受け入れるものもあれば
拒否をするものもいたという。
自分たちの平和な生活を
壊されることを
許せない人たちもいた、、。
アテルイと呼ばれる
平安時代初期に
その交渉は決裂し
朝廷が大軍で攻めてくるにも関わらず
僅かな手勢で
撃退していく蝦夷の親分。
その傍らには
いつもモレという男が
いたそうです。
彼ら蝦夷の征討軍として
紀古左美という征東大将軍が
攻め込みますが
アテルイたちのゲリラ戦法で
挟み撃ちに遭い大惨敗。
しかしそのあと
新たに編成された
遠征軍、、、。
征夷大将軍として任命された
かの有名な軍神
坂上田村麻呂が
征討軍として
陸奥国胆沢まで赴く、、、
激戦を繰り広げたのち
アテルイたちは
延暦21年4月15日(802年)
降伏する、、、、。
彼らは
捕虜となって
田村麻呂とともに平安京へ。
この東北から京都へといく
約三ヶ月の間
田村麻呂とアテルイとモレ、、、
勝利者と捕虜という関係の中で、、
彼らの間で友情が
芽生えたのかどうかも知りませんが
7月10日、平安京に到着し
田村麻呂はアテルイとモレの助命を
朝廷にしたそうです。
田村麻呂は彼らを死なせるには惜しいと
感じていたんでしょうね。
、、しかし彼の願いは届かず
アテルイとモレは
8月13日に処刑。
、、、この時の
坂上田村麻呂の
気持ちとはいかに、、、。
その坂上田村麻呂が建立したという
京都、清水寺
参拝した帰り道に
長い階段を降りて少し歩くと
この石碑があります。
、、よく見ると東北の地が浮かんで見えます。
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