金ヶ崎の退き口という
有名な撤退戦の
殿軍を務めあげた木下藤吉郎秀吉。
姉川の戦いから
一乗谷城の戦いで
朝倉家を壊滅させ
小谷城の戦いで浅井家を滅亡させた
織田信長から
浅井家の旧領を拝領した
秀吉37歳は
琵琶湖畔において
初めて自分の居城として
長浜城を築きます。
築城の際には
長浜一の美人が
長浜の繁栄祈願のため
人柱として身を捧げたそうです。
このエピソードが今も忘れられずに伝わり
碑が建っているというのも
よほどおかねさんに対しての
思いが強く残っているのでしょうね、、。
寂しげに建っています。(平日)
あ、祠?が城趾跡の隅っこにある、、と
よくよく調べたら(違うかもしれんけれど)
なんともう一つ人柱の言い伝えが
残っていました。
こちらはもう一人の人柱となった
おきくさんを祀っているらしい、、、
ある漁師の
しのぶという目の見えない娘がおり
漁師がしのぶに
人柱になってもらうように
お願いしたといいます。
漁師も目の見えない不憫な娘を
せめてお城の御用に
たって貰おうという親心からか、、
辛かったでしょう、、、、、、
しかしそこで
傍にいたしのぶの姉
おきくが
「妹は産まれながら目が見えず
このまま人柱として死なせたら可哀想です。
私は姉として産まれて
これまで世の中を見て
妹に比べたら幸せに
過ごして参りました。
いっそのこと、私が妹の代わりに人柱として参ります。」
とおきくが人柱としてお城の御用立ての身代わりとなったという、、、。
多分、彼女を祀っているのがこの祠ではないでしょうか?
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