1615年

奥平信昌夫妻墓 

徳川家康は

関ヶ原の戦いのあと

 

娘婿であった

奥平信昌に

美濃加納藩10万石を与え

 

どうもこれまでの

歴代城主にろくなことがないと

きっと多分、、話し合いのなかで

あったであろうと思われる

岐阜城。

 

その岐阜城の

壊された廃材を利用し南の地に

加納城を築いたといわれます。

IMG_1711

その初代藩主である

奥平信昌夫妻のお墓が

お城の近くのお寺にあるけれども

、、

が、、、、しかし

これは、、、、、、

ミもフタもないこの看板、、、

門は開放されているが

人気もないので

 

すごく入りづらい、、、

そのため

門扉の外から写真を撮っただけです、、、

奥平信昌といえば

 

あの長篠の戦いにおいて

武田軍15000人に

長篠城を囲まれながらも

たった500人で籠城し

城を死守するという武功を挙げ

 

この活躍により

もともと貞昌という名だった彼は

 

織田信長から「信」の一字を貰い

信昌と改名したという話もあります。

三河の山奥に囲まれた

小さな土豪であった奥平氏。

 

戦国の時代、、、

今川家や徳川家、織田家

武田家と家名を存続させるため

いろいろ渡り歩いたといいます。

 

転機が訪れたのは

1572年(元亀3年)

 

西上作戦と呼ばれる

武田軍が三河侵攻を目論む

三方ヶ原の合戦のあと、、、

徳川軍はそのとき

壊滅的な打撃を受けたものの

 

突如

武田信玄の病の悪化により

武田軍は撤退、、、領国へ戻ったという。

 

そして再起を図る

徳川家康は

かつて奪われた長篠城を

再び奪い取るため城を包囲。

 

そのころ、武田軍に従っていた

奥平定能。

このころまだ噂の域を出なかった

武田信玄の死が

決定的となったとき

 

徳川家康から

味方にならないかと誘いを受けます。

 

徳川家康の娘である

亀姫を

定能の息子である

信昌と結婚させるという

約束を条件の一つとして、、、、

 

これを受けた奥平定能、信昌親子は

ここから徳川家に

忠義を尽くすこととなります。

奥平信昌、、

実はこの頃もう

結婚しており

おふうという妻がいたといいます。

また信昌の弟である僅か13歳の千丸も

武田家の人質となっていたらしい、、

 

だが、、しかし

信玄の息子勝頼は

この奥平親子の裏切りを聞き

激怒する。

 

人質であったおふうたちは処刑される、、。

 

武田家を裏切る前に

信昌は

彼女に危険が及ばぬように

おふうとは離縁をしていたそうですが

 

そんな世の中うまくはいきません、、、

 

そして武田信玄亡き後

武田家の領主となった

武田勝頼。

 

1575年(天正3年)

遠江、三河の掌握を図り

5月8日に

徳川軍に再び奪われてしまった長篠城を

奪い取ろうと

15000人の兵をもって囲む、、

 

そのとき、長篠城城主奥平信昌(まだ貞昌)

 

信長から頂いた「信」の字は

どうも武田信玄の「信」ともいわれていたと

いわれており、、よくわかりません。

 

、、、しかし

まだ20歳前後の若者が

この長篠城を守るべく

たった500名の兵とともに

壮絶な籠城戦を繰り広げることとなる、、

 

この戦いのなかで

籠城軍は

武田軍の攻撃により

火矢で兵糧庫も燃やされてしまったそうで

食べるものもほとんどなくなり

 

兵士たちはそのへんのタニシとか

食べていたらしい、、、

 

子供の頃は

食べる人がいたとも聞いたことありますけれど

どんな味なんでしょうか?

歯ごたえ?は良さそうな気はしますけれども、、

 

それはともかく

 

なかなか助けに来ない徳川軍、織田軍、、

 

城のまわりは

武田軍に囲まれている状況で

 

5月14日、、、

遂に

信昌の家臣が

武田軍に取り囲まれている状況のなかで

援軍要請の使者として

夜陰に乗じ城の下水から包囲網を突破。

 

↑この、、、多分どこかで見たことの

あるひとはある磔の男、、、、、

彼こそ長篠の戦いにおける英雄

鳥居強右衛門。

 

写真だけは撮りましたけれども

長くなりそうなので

また、、、そのうち、、、、、

安国寺恵瓊

と呼ばれた僧は

中国の覇者

毛利家に仕えていましたが

あの、、有名な本能寺の変のあと

羽柴秀吉が仇である明智光秀を討つべく

毛利高松城から一気に舞い戻る

中国大返し。

 

このとき

毛利家と織田家の交渉窓口として

和睦を取りまとめたといわれます。

 

その後、彼は秀吉の家臣となりますが

時を経て、、

 

関ヶ原の戦いにおいて

毛利輝元を西軍の総大将として

担ぎ上げ

自らも関ヶ原において参陣しますが

 

しかし西軍は敗北し

彼は京都に逃亡したといいます。

 

その京都で潜伏しているころ

奥平信昌は

その頃京都の治安を守る

所司代に任じられており

その京都において

安国寺恵瓊を捕らえたという、、、

 

また、それを捕まえたのが

鳥居強右衛門の息子だったらしい。

 

、、どんどん話がズレてしまいますが

 

奥平信昌、、、

彼は父、定能と相談し

奥平家を守るべく

賭けに出て

 

結局

おふうを見殺しにしてしまった、、

 

出世していく彼のなかで

一生つきまとうであろう

この気持ちというのは

彼にしかきっと

多分分かりませんけれども

 

、、不本意であったかどうか

分かりませんが

たとえ政略結婚だったとしても

 

あの征夷大将軍

徳川家康の娘婿となり

その後も

徳川譜代の家臣として

徳川四天王に続く大名となり

天寿を全うしたといいます、、、

 

 

しかし、、、

この奥平信昌の二人目の妻で

徳川家康の娘である

亀姫、、

なかなか衝撃的なエピソードが残ります、、、

次回へ続く、、、予定、、、

げっ、、、

たまたまみたら、、、、

長篠の戦いが始まった日って

昨日じゃんか、、、

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