1868年

青松葉事件之遺跡

名古屋城の

東門からくぐっていき城へ向かう途中、、

そこには二の丸と言われる広い庭園があります。

その近くに

人目のあまりつかない場所にあるこの石碑。

江戸時代の終焉を迎えようとしている

1868年(慶応4年)に

尾張藩藩主である徳川慶勝が朝廷からの命を受け

佐幕派であったといわれる14名の家臣たちが

突如

斬首、切腹させられます。

その処罰を受けた中心人物が

尾張藩家老であった

渡辺在綱。

青松葉とは彼の号?異名?だそうです。

 

、、かつて

「槍の半蔵」として

戦国の時代から徳川家康に仕えて

徳川十六神将のひとりとして知られる

渡辺守綱から始まる渡辺家

徳川家において名門の一族として何百年も受け継がれていきます。

 

、、そして時代は過ぎていき、、幕末と呼ばれる時代に

通称新左衛門と呼ばれる渡辺在綱。

彼は尾張藩において重用され

尊皇攘夷やら佐幕やら混乱のさなかにおいて

これからの時代を見据えてか

私財を投じ大砲を作ったり藩士の訓練に身を尽くしたそうです。

 

黒船でペリーが来てから開国だの攘夷だの

日本中は沸き立ち大騒動のなかで

1867年(慶応3年)

大政奉還により江戸幕府15代将軍

徳川慶喜が政権を天皇に返上し

そのあと

岩倉具視や大久保利通らが

新政府樹立を宣言した

王政復古の大号令。

そのひと月後には、、

ついに戊辰戦争の始まりとなる

鳥羽伏見の戦いが勃発。

その時、名古屋城にいた渡辺在綱らは

幕府軍に合流し京都に攻め入ろうと言います。だが、、、

いや、ちょっと待て、大政奉還もあったし薩長の勢いも凄いし

これからは新政府の時代じゃないのとか、、

先の分からん時代の中で、、

慎重に考えて、兵を送るのは少し控えては、、という意見もあり

尾張藩の中で新政府側につくか幕府側につくか

揉めに揉めているなか

 

その頃、京都にいる

尾張藩藩主、徳川慶勝も

どちらにつくか

決断を迫られる、、

 

鳥羽伏見の戦いで幕府軍は敗れたあと

1868年(慶応4年)1月20日、、、

徳川慶勝は京都から名古屋に戻ったその日に

「勅命」のもと

渡辺在綱ら3人の重臣をなんの説明もなく

問答無用で処刑。

そのあと、何日かに渡り合計14名の首が斬られ

20名にのぼる処罰、、

また、その家族も罪に処せられたそうです。

 

現在も謎の残る事件だそうで、、、

看板にもなんだかよく分からないと書いてある、、、、

しかし、よく見たらパンフレットにも記載されず

名古屋城内の目立たないところに

ひっそりと今も佇んでいるこの石碑、、

(煌びやかなものもいいですがこういうのこそ本当は

伝えていくべきもののような気もしますが、、、

分からんけど)

非業の死を遂げたと言われる14名、、

この碑を作った人は

誰かに何かを訴えたかったのか

それとも忘れられない記憶として

残したかったのか

きっと彼らの霊を慰める

石碑でもあるんでしょうね、、、、

 

しかし渡辺在綱らの死はなんだったんだろうか、、

江戸の時代から徳川御三家の筆頭でありながら、誰一人として将軍を輩出できず

明治に入ってからも尾張の人たちは新政府で殆ど要職にもつけず

彼らの死は尾張藩にとっては維新後も

あまり報われていないみたいです、、、

 

で、どうでもいいですが

よっようやくふたつめのスタンプです、、、

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