649年

伝 蘇我倉山田石川麻呂の墓


暑くもないのに汗が吹き出る瞬間

寒くもないのに手足が震える瞬間

何度か経験した覚えありますが、、、、

 

岐阜県各務原市の僻地にある

畑と田んぼが広がるなかで

ぽつんとこのお墓はありました。

あるといってもほとんど整備はされていないようで

丘?古墳?のてっぺんにあがるため、、

道なき道を登ります。

蘇我倉山田石川麻呂という方が眠っておられるらしい、、、。

はるか昔の飛鳥の時代

のちに聖徳太子と呼ばれる

厩戸皇子が死去したのちに

 

次期天皇ともよばれた聖徳太子の息子

山背大兄王の天皇即位を阻み

しまいには蘇我入鹿に攻められ自害させる

蘇我氏と呼ばれる豪族が天皇家を差し置いて

権力を独占。

父、馬子の死後

蝦夷、入鹿親子は権勢をふるいやりたい放題だったそうです。

 

しかし蘇我倉山石川麻呂は同じ同族ながらも

陽の目を見ず、不満を持ち

中大兄皇子と中臣鎌足から声をかけられてからは蘇我氏失脚を狙い

密な関係を築きます。

 

 

「乙巳の変」

いっしのへん(おつみ、、、と呼ぶのかと思った、、、難しいな、、)

と呼ばれるクーデターが彼らの中で計画されます。

 

645年に新羅、百済、高句麗と朝鮮半島の使者が来日し

6月12日

朝廷の正殿(今でいえば皇居ですかね、、?)

大極殿において接見の儀式を執りおこなう為

有力豪族が出仕します。

蘇我入鹿も大極殿に現れ、、

 

中大兄皇子や中臣鎌足、蘇我石川麻呂らは

この儀式を狙い蘇我入鹿暗殺を実行。

 

新羅、百済、高句麗の使者が持ってきた文書を

皇極天皇の前で読み上げる

蘇我倉山田石川麻呂。

彼がこの上奏文を読み上げるのが

入鹿暗殺の合図、、、。

 

この儀式の場に潜む4人

中大兄皇子は長槍を持ち

中臣鎌足は弓矢を、、

剣を持つ

佐伯子麻呂と

葛城稚犬養網田(かつらぎのわかいぬかいのあみたと呼ぶそうです、、こんなの読めないですよね、、しかしどういう意味だか)

入鹿を斬る役目として任された二人、、、

だが、、あまりの恐怖と緊張で一歩も進めない。

 

文書を読み上げている蘇我石川麻呂、、

なんだ計画と違うじゃないか、、、

どうなっているのか、、、??

 

なぜ、誰も出てこないのか、、、

彼は全身汗にまみれ、手足震え

声さえも、、、

(その場にいないので分かりませんが想像すると石川麻呂の状況、、堪らないですね。)

 

、、、挙動のおかしい石川麻呂を見て

不審に思った入鹿は石川麻呂に

なんでそんなにおまえはへんなのか聞きます、、

 

「天皇陛下の前で畏れ多く、緊張している」と答えます。

 

、、、業を煮やした中大兄皇子は自らその場に飛び出し

 

蘇我入鹿に斬りつけて、その勢いで

佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田も躍り出てきてそのまま入鹿を惨殺。

 

外は大雨、、、入鹿の骸は大極殿の外に投げ出されたそうです。

 

このクーデターにより、入鹿の父である蘇我蝦夷も

入鹿の死のあとにまもなく自殺。

 

これにより、大化の改新と呼ばれる改革が始まります。

これまで、各地の豪族の連合統治をしていた日本は

 

遂に天皇を中心とする中央集権国家へと移り変わっていく、、、。

 

そして大化の改新において右大臣となった蘇我石川麻呂。

彼は649年(大化5年)に謀反の疑いで

(中大兄皇子たちの陰謀とも言われますが)

 

奈良にある山田寺というお寺で追い詰められ自害します。

 

しかし、何故奈良県で亡くなった

 

有名人のお墓が岐阜にあるのか、、、、、

 

彼のお墓なのかどうかも定かでは無いですが、、、

長い時間のなかで細い糸のような縁が繋がりに繋がり、切れずに

この地にたどり着いたんでしょうね。

知らんけど、、

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