1547年

織田塚

「二頭波紋」

と呼ばれるこの家紋、、

このはぐれメタルのような寄生獣のような

わかりやすいデザイン、、、

すごく個人的には

こうゆうのは好きなんですけれども

 

どんな状況でも

海の波の如く押しては引き、、

ついには打ち砕いていく、、、

 

斎藤道三は

この家紋の旗を

幾度となくいくさのなかで

掲げていたんでしょうか。

 

 

 

土岐頼芸という

土岐家の当主として

鷹の絵を描くのが

うまかったという守護大名は、、

いろんな人に利用されるのも

 

うまかったみたいで、、

 

もはや当の守護大名より

まわりを囲んでいる部下たちのほうが

強大な力を持っているような

内紛治まらぬ美濃において

 

船田合戦に勝利し

美濃守護職を継いだ

土岐政房。

 

彼は父に疎まれ

弟に守護職を継がせようとされ

ひといくさあった過去が

あったにも関わらず

 

再び同じ過ちを繰り返し

 

政房は嫡男である

土岐頼武がいたが

次男である

土岐頼芸を溺愛し跡を継がせようとする、、、

そこから兄と弟の

血で血を争う家督争いが幾度も行われます、、。

 

頼芸19歳のころ

斎藤道三の助力もあり

兄、頼武を追い出し

美濃守護大名となったはいいが

 

1542年(天文11年)

前の年に

道三により頼芸の弟である頼満が

毒により暗殺されてしまい

土岐一族らは

道三の野望を打ち砕こうと

兵を集めたらしいが

 

道三の予測の範囲内であろうか

美濃を我が物にすべく

頼芸の居城を急襲したという。

 

美濃を追放され

尾張へ落ちた頼芸。

 

そのあいだ、、、

織田信長の父である信秀は

頼芸の面倒をよく見ていたらしい。

 

そしてその前にお家騒動で敗れた

頼武の息子である頼純、、

ちょうど彼は彼で

越前朝倉家に身を寄せていたころ、、

 

かつては家督争いをした

敵の敵は味方?となった

兄の息子である頼純と叔父である頼芸、、

 

1544年(天文13年)

もしくは

1547年(天文16年)

に起こったといわれる

加納口の戦い、、

 

かつての美濃守護の血統の正当性を

利用した織田信秀は

美濃と尾張の交通の要であった

大垣城を押さえ

朝倉家と手を組み

ついに

「道三退治」が開始される、、。

 

織田軍は怒涛の如く

美濃へ押し寄せ

 

その町々を焼き払いながら

稲葉山城の麓まで詰め寄ったといいます。

岐阜市街も

うろうろしていると

かの斎藤道三にまつわる

史跡が

いろんなところに転がっている、、。

 

織田塚と呼ばれるのは

そのまんま、お墓ですが

この地に残されて

もはや畏敬の対象であろうか

500年以上経っても、、

建物の隙間に囲まれて

今なお残る、、、。

 

この戦いにおいて道三は防戦一方、、

町の消火をしながら、、、

 

しかし難攻不落の稲葉山城は

堕ちることなく

 

城のまわりでは二頭波紋の

のぼり旗が静かに

静かになびいていたかもしれません、、

 

時が経ち、、、

信秀は兵の疲労もあったであろうころに

 

一度兵を引き上げる、、、

半分ほど兵が引き上げた

その時

 

これまでなりをひそめていた

斎藤道三の軍が

 

一気に織田軍めがけ押し寄せたといいます。

 

応戦する信秀軍、、、

だが多くの兵が崩れたち

討死、、、

 

その数5000人ともいわれ、、

戦後、、大穴を開けて

亡くなった兵士たちを

この地に埋葬したといわれる場所、、

とてもじゃないが蝮には勝てないと

信秀は思ったかどうか知りませんが

 

このあと、、彼の重臣である

平手政秀が斎藤家との関係を築くため

外交手腕を発揮する、、、、

 

、、あんまり関係ないけれども

 

土岐頼芸の息子である頼次、、

彼は父とともに斎藤道三に追放されたのち

豊臣秀吉や徳川家康に仕えていき

ついには江戸時代、旗本となり天寿を全うするらしいが

 

その頼次の息子である梶川頼照、、、

元禄の時代に

のちにあの忠臣蔵と呼ばれる

赤穂事件、、、

江戸城中において

浅野内匠頭が

「この間の遺恨を覚えたるか」と叫び

吉良上野介に斬りかかるその瞬間を

目の当たりにし

浅野内匠頭を取り押さえたといいます。

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