1575年(天正3年)
5月に
長篠の合戦において
武田勝頼を破ったのち、、
越前の一向一揆を平定した織田信長。
本願寺顕如との永きに渡る
石山合戦も少しづつ綻びが見えはじめ、信長に和睦を願い出てきて、、
破竹の勢いで
信長は朝廷から権大納言 右大将を任じられます。
、、もはや誰もが認めつつあり
実質的に信長の天下となっていくなか
長篠の合戦で敗れた武田勝頼軍が再び進撃。
、、狙うは
かつては織田の領地だったのに
武田軍の秋山信友が
女城主おつやの方をうまいこと妻にしてしまい
奪い取ったという
岩村城
武田勝頼は
岩村城に立て籠もっている武田勢と合流しようと作戦を立てましたが
信長の嫡男である信忠が5ヶ月に渡った末、この時期に岩村城を攻略。
夜討ちを仕掛けようとした武田軍はことごとく逃げ散り
捕まったり籠城していた者たちは皆殺しにされ
武田勝頼はなすすべなく本国へ撤退。
息子である
織田信忠のこの戦いによる活躍は父である信長も大喜び。
そのあと、信長は嫡男信忠に家督を譲り
尾張、美濃の二国も信忠に、、
父である信長は、、
翌年 琵琶湖畔にある近江、安土山で新たに城を築きます。
家臣である
丹羽長秀に命じて普請を開始した安土城。
熱田神宮の宮大工の棟梁、岡部又右衛門を筆頭に
尾張 美濃 伊勢 三河 越前 若狭 畿内の侍たちや
京都 奈良 堺の大工、職人を集めて
近くにある大きな石を何千人もの人たちが安土城に運んだそうです。
安土城の石で有名なのは
「蛇石」
と呼ばれる巨石。
安土城山頂まで運ばれたとされる
この五間、三万貫の(昔の単位は、、もう、、、よくわかりません とにかくでかいらしいです、、)
石は築城において引き上げる際、綱が切れ150人も引き潰してしまったらしい。
おっ、おっかない、、、これだけ、、苦労して運んだ巨大な石ではあるが
発掘調査をされていた現在でも
未だ見つかっていないそうです、、
まさに「城塞」ともいえる
修復したり再築したりとか無く
廃墟?に近いような雰囲気と
スケールのでかさにドキドキします。
天主跡まで標高199mの大手道をゆっくりと登っていくと
階段にはいくつもの墓石、お地蔵様が使われたそうで
登るあいだ、足元にお地蔵様っぽいの何度か見かけます。
これ、、もはやバチあたりというよりも
ハナから信長はこういう神仏の類については興味がないんでしょうね、、、
(でもこの安土城には信長が建てた寺もあるんです、、、
だからそういうのを信じていないわけでは無いみたいですが、、
なんだかよくわかりません)
少し登れば、前田利家の屋敷とか
向かいには
羽柴秀吉の屋敷とか
どんどん登っていくと
森蘭丸の屋敷があり、そばには
大溝城の城主であった、甥の屋敷もありました、、
二の丸跡から信長公本廟へ。
本丸跡を過ぎると
1579年(天正7年)に竣工された
天主閣趾。
今は礎石のみ整然と並ぶこの地に地上6階地下1階 33mの
壮大な天主が建ち、内部も狩野永徳の豪壮な障壁画、装飾
豪華絢爛の城が
かつてここにあった、、、
今は陸地となっていますが
かつて、琵琶湖に囲まれた景色を眺めながら
強大な力を得て日本を手中に収めようとしている
信長、、、
だがこの僅か三年後に
本能寺の変が起こります、、、
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