1221年

承久の乱 合戦供養塔

 

子供の頃に、、、

 

よく父親に連れて行かれたおぼえが何度かあります。

岐阜県各務原市

 

木曽川沿い

近くにある愛岐大橋を渡れば愛知県

この川沿いにある

前渡のお不動さんと親しまれている

小さな山の中腹に

承久の乱合戦供養塔はあります。

、、いいクニを作ろうと

平氏を滅亡に追い込み

鎌倉幕府を開いて征夷大将軍となった

源頼朝は

1199年に落馬し命を落とす。

 

しかし任命から僅か7年程しか

経っていません。

 

頼朝は子供の頃

平清盛の命により罪人として伊豆に流されますが

そこで出会った

北条時政の娘、政子。

 

頼朝と大恋愛の末

結婚を決意したという。

 

しかし罪人と結婚するなんて

とんでもないと父、時政は大反対。

 

しかしこの結婚は最終的に時政が折れ

 

それから北条時政は

頼朝のバックアップを積極的にしていったといいます。

 

源氏の挙兵に協力し

幕府の創設にも尽力して

常に頼朝の側で力を蓄えていった北条家。

頼朝が亡くなってから、源氏は雲行きが怪しくなっていきます。

 

朝廷では、平清盛以来奪われていく権力を

取り戻したいと

後鳥羽上皇が水面下で動いています。

 

頼朝の嫡男である源頼家は

北条家との権力争いに敗れ殺され(死に方がえぐい、、)

その弟である実朝も

鶴岡八幡宮で暗殺される、、、

北条氏は執権として

政治の中枢を担うこととなります。

 

そんななかで

皇権回復を図り

後鳥羽上皇が

北条家を潰してしまおうと

 

ときの執権

北条義時追討の院宣を発し

夜が明ければ、朝敵となる鎌倉幕府、、

 

驚き戸惑う幕府側は

朝敵とされてしまい御家人たちが動揺するなか

頼朝の妻、北条政子が

亡き頼朝公の恩は山より高く海より深いと

涙ながらに訴えてから

 

幕府軍は結束を固め鎌倉から出撃。

190000人の兵を

東海道

東山道(今の中山道みたいです)

北陸道の

三手に分けて京へ向け進軍します。

後鳥羽上皇は

幕府追討の命令を

朝廷がしたんだから

みんなついてくるだろうと

甘く見ていたみたいで

 

この幕府の侵攻に仰天し迎え撃ちますが

朝廷軍はあっという間に鎮圧されてしまったそうです。

その合戦場のひとつがここ、、摩免戸。

摩免戸の戦いでの戦没した供養塔。

もともと川沿いのほうにあったみたいですが

木曽川に流されてしまい

この矢熊山に移転されたそうです、、

 

、、

山を少し登ったら途中でへびがいました。

シマヘビかな、、

しかしへびなんて何十年ぶりに見ただろうか、、、

 

山の頂上にはお堂があり

人っ子ひとり会わず

蚊だけはたくさんいて血をたくさん吸われました。

 

昔はもっと人の行き来があったような

思い出もありましたが

なんとも寂しいところです、、

この戦いで武士の力を

一層強固とした鎌倉幕府。

 

朝廷が再び幕府に逆らってこないように

監視をする為

京都に六波羅探題を置き

治安の維持を図ります。

 

しかし朝廷による倒幕への闘いは

長い歳月をかけ

この先も、まだまだ続いていくようです。









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