1622年

彦根城

徳川四天王と呼ばれる

徳川家康を支えた武将たち。

 

その筆頭とされる

酒井忠次、、

家康の父の代から仕え

家康が人質として今川家に赴く際もそばに付き添い、、

苦楽を共にしながら

数々のいくさで活躍したといいます。

 

三方ヶ原の戦いにおいてその戦いぶりから

武田信玄に

「家康に過ぎたるものは2つあり。唐の頭と本多平八」

と言わしめたという猛将

本多忠勝も四天王のひとり。

 

本多忠勝と同い年で

政治には一切口を出さず

戦いに明け暮れた榊原康政、、

小牧長久手の戦いでは

豊臣秀吉に宛て

なんでお前が、信長公の恩を忘れ

天下を取ろうとするんだ

恥を知れだのなんだの、、

罵詈雑言の手紙を送りつけ

秀吉をぶちぎれさせたといいます。

そしてこの彦根城は

徳川四天王の最後のひとり、、、

 

関ヶ原の戦いのあと

その武功から

かつて石田三成の領地であった

佐和山藩を領し

、、その石田三成の居城であった

佐和山城を壊して

琵琶湖畔に居城を築いた

井伊直政。

 

天守閣から見える景色

確かあの山が佐和山城の跡だった気がする、、、。

目と鼻の先、、、、

 

だが

琵琶湖の東に彦根城を築いた

彦根藩初代藩主である

井伊直政は、この城の竣工を見ることなく

関ヶ原の戦いにおける怪我がもとで

42歳の若さで亡くなってしまいます。

三河の片田舎の庄屋の家から始まったとされる

松平家、、、のちに徳川家と呼ばれ

 

家康が生まれる前から

もはや犬とも呼ばれるほどの忠誠心を持つ

三河武士の社会において

 

徳川家とゆかりのある武将たちがいるなかに

ちょうど時代的には長篠の合戦が

始まるような頃から、、

直政は途中参加で飛び込んで

酒井忠次、本多忠勝、榊原康政も含め

あの鬼作左や松平伊忠とか槍の半蔵とか

徳川家を守るべく

一向一揆や武田信玄との

激戦を繰り広げていった自負を持ち

 

いや、、家康が生まれる前の時代から、、

 

三河家臣団には

多分、外部の人間が入り込めないような

独特の連帯感があったといいます。

その、、、、

 

はたから見てもちょっと不気味で、、、

閉鎖的に感じる連中が大勢いるなかで

後世において

四天王の一人として

数えられた井伊直政。

 

他人には想像もつかないほどの

相当の苦労があり努力や忍耐、、、

そして、妬みや嫉みなども全て受け入れ

乗り越え、一切の妥協をせず

家康に尽くした、、、、。

 

 

直政の父親は今川家の家臣で

父は謀反の疑いを受けて殺されてから

没落した井伊家。

、、、そのあと幼い直政は

母親とともに

流浪の少年時代を過ごしたといいます。

 

転機が訪れるのは

直政15才のとき

浜松城の城下町で

鷹狩りの帰り道、、、

 

若き家康の目に留まった

虎松という少年。

これまで不遇の時代を過ごしていた

少年に、、、

 

家康も少年時代には苦労したといい

かつての自分を重ね、、

思い馳せたのか、、、

 

それとも虎松が放つ何かを

感じ取ったんでしょうか、、、

かなりのイケメンだったらしいし、、、

 

家康は虎松に

潰れてしまった井伊家を

再興させるよう指示をし

家康自らの小姓として取り立てたという。

これまで辛苦を重ねた

15才の少年は感激し

きっと燃え立つ気持ちは

抑えられない、、、

 

虎松は万千代と名を変え

一生を家康に捧げると誓う。

 

万千代は16歳に初陣である武田軍とのいくさ

芝原の戦いにおいて徳川家康の寝床に刺客を放ち

暗殺しようとした男をうちとり、、、

なんだかんだ逃げる機会の多いイメージのある

家康がまわりに近習しかいないような

少人数の時にピンチが訪れ

敵から追われる身となっている時に、、、、

 

皆飢えと疲労で逃げ延びている状況で

、、、どこかの祠に

赤飯が供えられてあり

家康や少ない家臣らが喜び

その赤飯に手を伸ばし

空腹を少しでも満たしているなか

、、、、

万千代は

自分は殿を守るため死ぬつもりでいるので

空腹を満たす必要はないと

言い切り、、、、

 

家康を感動させたといいます。

武田家が滅亡した時、、、

その遺臣たちを引き取り

井伊直政の家臣として

配属されたという

井伊の赤備え。

 

常にいくさの先陣となるべく

赤い甲冑を着て戦ったという

井伊家のサムライたち、、、

 

幾多のいくさのなかでも

井伊家の大将である直政自身

常に先駆けとして突っ込んでいったという。

(家臣は大変だったろうな、、、、、)

 

そのためか

あの本多忠勝が有名な槍、蜻蛉切を武器に

いくさでは無傷のまま

一生を終えたという伝説があるなかで

 

直政はどのいくさに出ても

生傷が絶えなかったといいます。

井伊の赤鬼と異名を持ち、恐れられた男は

もう一つ

おっかない異名を持つ、、、

人斬り兵部と恐れられ、、

直政は

自分を律し己の理想を高く持ち

それを部下にも強要したことで

それはそれで、、、、

結構部下たちにとっては

もうついていけないような

お殿様だったらしい、、、

(果たして命をかけた

ブラック企業のようなものなのか、、、

よくわかりませんが

家臣は大変だったろうな、、、、、)

 

関ヶ原の合戦後、、、

直政が亡くなったあとには

 

徳川の世にあって幾人もの大老という

幕府の最高職を輩出し

もはや彦根藩は

譜代大名における名門中の名門となり、、、

 

その譜代筆頭として続いていきます。

時代は流れ、、、、、幕末。

彦根城のお堀を隔ててあるのは小さなお屋敷、、

この井伊家において

もう一人

井伊の赤鬼と呼ばれた

井伊直弼が

不遇の時代を17才から32才まで

世を捨てたように過ごしていたが

 

ひょんなことから彦根藩藩主となり

ペリー率いる黒船が来てから

日本は混乱している状況。

 

その最中に

直弼は幕府の最高権力である

大老職に就くこととなります。

 

彼は開国をし交易をしながら国力を高めるという

考えを持ち、開国反対を叫ぶ人たちと揉めに揉め、、、

 

そして失墜した幕府の権威を

もう一度取り戻そうと闘うが

 

ついにはあの有名な安政の大獄が断行される、、、

 

しかし

怒りの頂点に達した

水戸藩の武士たちは脱藩。

彼らは

1630年(安政7年)3月3日、、、

雪の降る朝に

江戸城桜田門において襲撃し

井伊直弼は殺される、、。

そのあとの彦根藩、、

徳川家大老であり

藩主である直弼が暗殺されるという

前代未聞の事件において

大騒動、、、

江戸の水戸藩屋敷に攻め入ろうとする

彦根藩士たち 、、

(上も下もみんな大変だったろうな、、、、)

 

なんだかよく分からないまま

直弼の首は

世間に晒されることはなく

 

藩のお取り潰しはなんとか避けられたが

 

幕政改革の失敗の責任を負わされて

10万石を減らされたといいます。

 

だがそれでも譜代筆頭の地位を

回復するため

赤備えの彦根藩士たちは

禁門の変や

天狗党の乱、第二次長州征伐など

幕府軍の先鋒として

魁けて戦いに臨んでいく、、、。

 

でも、、彼らは

大政奉還の翌年には

戊辰戦争において

鳥羽伏見の戦いの敗戦ののち、、

直弼死後の彦根藩に対する

仕打ちや新政府軍の勢いとか

時代の流れも見極めていく、、、

 

これまでの幕府への

不満や不信感も募っているなか

ついに

 

彦根藩士たちは皆

赤い甲冑を脱ぎ捨て

 

新政府軍に与し

幕府を相手に戦う決意をしたという、、、。

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