1183年

常盤御前の墓

関ヶ原合戦場から少し離れた大谷吉継の陣のほど近くにある、、、

この山中という小さな村に

源義経の母親である

常盤御前のお墓があります。

彼女は身分は低いながらも

絶世の美女と言われ

源義朝の妻となり

今若、乙若、牛若の3人の男児を産みましたが

平清盛との戦いに敗れた平治の乱ののちに

義朝は殺されます。彼女は京都にいる母が捕らえられたという噂を聞き

子供達を連れて都へ、、、

平清盛に母と子供達の助命嘆願をし

かわりにその身を平清盛に捧げることとなり

、、、女の子を産んだとか産まないとか、、、

やがて、、一条長成という貴族のもとに嫁ぎ

子供を2人産んだといいます。

時代のうねりに巻き込まれた彼女は

どんな思いで毎日を過ごしていたのかは分かりませんけれども

世間の噂はきっと彼女の耳にも入ってくることでしょう。

 

で、なぜ岐阜の田舎に常盤御前の墓があるのかは知りませんが

(鹿児島とか群馬、埼玉、京都とかにもあるようです、、、)

源義朝との子であり、鞍馬山に預けていた牛若が成長し源義経として

西へ向かう際にここ山中村を通り過ぎる時には

常盤御前はもう

この世にはいなかったという、、、、

伝説の残る

お墓の近くにあったこの常盤地蔵。

看板には

「常盤は義経がそのうちこの道を通り都へ行くはずだから

ぜひ道ばたから彼を見守ってやりたいと言い残し

息を引き取った。村人に手厚く葬られ

この地蔵を安置し供養した。

1183年(寿永2年)

上洛のため義経は軍を率いて

この地にある若宮八幡神社で

西海合戦勝利を祈願し

母の塚、地蔵前でひざまずき

母の冥福を祈った」

と書いてあります。

一方、お墓の脇の看板には

西ではなく東へと向かう義経を乳母とともに追いかけ

土賊に襲われたと書いてあります。

まあ、なんだかよく分からない部分も多いですけれども、、、、

もうひとつ、この地には興味深いエピソードがあります。

 

、、、時代を超え、400年以上も後に

この山中村にある常盤御前の墓にまつわる物語が伝わっています。

1575年(天正3年)長篠の合戦が終わった頃、、、

織田信長は岐阜と京都を行き来しており

ここを通るときにいつも、、

ある者をみかける、、、

中山道にある山中村の道ばたにおいて

体に障害がある者が

雨露にうたれ乞食をしていたそうです。

信長はたいそう哀れに思い

「大抵乞食は住むところを定めず

さすらうものだが

なぜこの乞食はいつもここにいるのか」と

村人に聞きます。

すると村人は答えます、、

「昔、この山中の地で常盤御前を殺した者の

子孫でありその報いで

代々に渡り身体に

障害を持って生まれ

ここで乞食をしています。

世間では山中の猿と呼ばれています。」

 

それを聞いた信長は、、

次に京に上がる際に

この山中村で馬を止め

皆に言いつける事がある、、、、

と村人全員を集めたそうです。

あの、、織田信長から呼ばれ

何を言われるんだろうかと

きっと村人たちは衝撃を受け、、、

恐れ慄いたでしょうね。

、、、恐る恐る出頭する村人たち、、、

信長は山中の猿のためにと

木綿二十反(だいたい1㎞?くらいでしょうか?)

を村人に預け

「この木綿の半分を費用にして近所に

山中の猿が住めるよう小屋を作り面倒を見てやりなさい。

また、近隣の者たちは麦や米を収穫時に

負担にならない程度に山中の猿に与えてあげてほしい。」

と言ったそうです。

 

それを聞いた山中の猿や村人たちは大感激。

きっと歓喜の嵐で

想像つきますよね、、、

その瞬間を見てみたかったな、、、

 

おっかないイメージのある信長も

優しい一面があるというのが

なんとも微笑ましいというか、、、、

ところで、この山中の猿の子孫は

いまも、、、この町のどこかにいるんでしょうか、、、?

気になりますね、、、、

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